スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

つれづれ5 科学という宗教という発想

今日も寝付けない為、文章を書いてみようと思います。

 

ネオプラグマティズムという思想をご存じでしょうか。

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私はネオプラグマティズムとは何かという本を読んだだけなので、そこまで詳しくないのですが、大雑把に言うとポストモダン思想を踏まえたプラグマティズムですね。

もっと分かりやすく言うと既存の考え方を否定的に見た上で、哲学を言語活動の立場から再構築しようというものです。

 

ネオプラグマティズムの特徴として、客観的真理を否定します。人間が何かを正しいとするのは、外部に客観的真理が存在するからではないというのです。

gomiblog.hateblo.jp

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このネオプラグマティズムの思想では、宗教における大文字のゴッドと、大文字のサイエンスを同じく一つのイデオロギーとして相対化するという特徴があります。分かりやすく言うと、神は人間の創作物であって、一つの地域における文化的所産に過ぎないので物語の一つとしては理解するが、客観的真理や普遍的歴史の語り部とは見なさないという立場です。又、同様に科学も人間の恣意的な価値判断が混入している為、事実だけを扱う普遍的客観的な知識の体系とは見なさないという事です。

 

この批判には一定の説得力があります。この手の発想に近いものとしては現象学を挙げる事ができます。

以前、別の文章で触れましたが、この発想は珍しいものではなく現代人にはなじみのある考えだと思います。神の存在は証明されておらず、宗教の経典を絶対の真理であると受け入れる人達以外には、相対化されている事はさほど抵抗は無い筈です。

以前、キリスト教の考えを批判する文章を書きましたが、キリスト教の教えが全世界に元から広まっていた訳ではない、普遍ではないという事や、聖書に記される歴史以前の遺物(生物進化の痕跡とされる化石など)があるという点からして、キリスト教(あるいはアブラハムの宗教)の神、および聖書の絶対性は否定されていると見なすのが現在の科学者の大筋の合意だと思います。これに反対するキリスト者は多いと思いますが、聖書研究をしている聖書学の学者も多くはこれを否定していません。(聖書学と神学は別のものであるという理解が必要です)

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又、人間は科学という営みの上に文明を築きましたが、科学という営みに関しても人間の考えの偏りや錯覚が含まれている可能性があるという指摘は然程おかしいものではないと思われます。むしろ、科学の手法について研究する統計学や科学哲学、あるいは心理学などもこれらの問題を積極的に指摘しているでしょう。

 

大文字のサイエンスは大文字のゴッドと同じく宗教であり信仰の対象だと言う人も、科学教という言葉を批判に使う人もいますね。

 

ここからは私の考えですので、それを踏まえて読み進めて下さい。

私が思うに、相対化というのは重要な事です。人間はよく自己中心的になります。それもその筈、人間の視野や感覚は自分という生物の神経反応に基づくものですから、他人の感覚、痛みなどは分かりません。共感を示す事はできますし、態度などから相手の気持ちを推し量る事はできますが、同じ感覚を共有する事はできないですね。

その点からして、自分の考えや感覚した世界は全てではない、あるいは錯覚かも知れないという考えに結論するのは奇異な事ではありません。

具体例を出すと、人には見える世界に差異がある事があります。目に見える色の種類が多い人、少ない人が実際に存在します。

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多くの人は三色型色覚を持っていますが、二色しかない色盲(現在は差別的な意味合いへの配慮から色覚異常と呼ばれています)や、四色の色覚を持つ人が確認されています。四色型色覚を持っている人は女性に多いですね。

色覚以外の感覚にも差異があり、触覚が乏しい無痛症や、味覚や嗅覚に優れている人など様々な特徴を持つ人が実際に存在します。動物も同じ世界を見ている訳ではないようです。こういう事を積極的に唱えた人としてユクスキュルという学者がいました。

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このように、自分の考えや感覚を絶対のものとは見なさないという立場こそが、むしろ現代では主流になっていると言えます。

 

しかし、私はちょっと待てよ?と思う事があります。

宗教と科学を相対化した後、我々には何が残されるのでしょうか。

哲学でしょうか。それは如何なる哲学でしょうか。

陰謀論者の中に、世界中の全ての権威を否定するという事を提唱する人がいます。人間は間違えるからという訳です。私も一理あるなとは思うのですが、では自分の感覚、判断や経験、知識はどうでしょうか。自分こそを相対化するべきではないでしょうか。

あらゆる権威や思考の枠組みを否定して、残された自己の感覚を否定した後、私達は何を礎にして考える事ができるでしょうか。古くはデカルトやヒューム、もっと古くはピュロンに見いだす事のできるそうした考えは懐疑主義と呼ばれています。

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懐疑主義には利点もありますが、問題点も多くあります。

こんな事を言っている人をX(旧Twitter)で見かけました。

「科学は外界の存在を信仰しているから宗教である」

「現代の哲学はあらゆる思想は信仰に拠っていると主張する」

私はこれは端的に間違いだと思います。というのも、最も厳密に懐疑を行ったと言われている人達も外界を存在しない幻影であるとは主張していないからです。

仏教の一部にはそうした主張がありますが、彼らも又、この現実世界で活動して「正しく行い生きる事」(善思善語善行)を説いている訳で、外界が悪魔に見せられている幻影で、全ては夢に過ぎないなどと言っている訳ではありません。(因果応報という発想から言っても、善因や悪因がある以上、何かが正しいとか何かが間違っているとか言えなくてはいけない事になりますし、世界の理が幻で無限に移ろうなら、因果連鎖などというものは存在しない事になりますよね)

それらに一瞬のものだから執着するなとは言っているかも知れませんが。ちなみにこれに近い事を言った人としては道家荘子の思想を展開した人達がいますが、世捨て人ばかりになって良くないとして、後に孔子の流れを汲む儒家に批判されています。

 

外界の存在を疑うという事は可能ですが、これはナンセンスだと私は思っています。自分の感覚や思考する主体を疑う事もできますが、事実を疑っても何も分かりません。自分の感覚の他者との差異や思考の癖に目を向ける事が有益な場合はあると思いますが、外界の存在自体が幻影だという発想から生まれるものはないと思います。強いて言えば、そうした懐疑主義の行き過ぎは死んだ後、もっと良い世界に行くとか楽園があるという発想に繋がる宗教的なものだと私は思います。当たり前ですが、その可能性が否定できないですが、証明もできません。

このように理性における思考が思考の枠組みを食い破ってしまうような発想はむしろ除去されるべきだと思います。懐疑主義が有益だと思われているのは、懐疑する事によってそれ以上は疑う事ができないこの世界の輪郭を明瞭に知る事ができると思われているからです。ですから、事実認識すら信仰に過ぎないという発想は、その発想自体が非常に宗教じみていると言えます。これは宗教と科学を相対化する言説ですが、結局、その先にあるのは何も分からないとか、自分だけは良く分かっているという独善的な発想ではないかと思います。

確かに、人間の倫理や道徳、社会の規範に関して物理的な因果関係のような客観的真理というものはないかも知れず、文化的相対性があって、自然科学の探究手法は通用しないかも知れませんね。でもだからと言って、自然科学が無意味になる訳ではありません。宗教と科学を相対化する人も、今、インターネットでこの文章を読んでいる訳ですが、これは科学の所産です。

自然科学には一定の普遍性があると言って間違いではないと思います。

それが人間社会の取り決めにそのまま適用できない事と、全てを相対化する仕草が正しいかどうかは全くの別問題です。

 

人間は疑いや錯覚の連続の中で、何らかの方法で生きていく必要があります。それが科学とか宗教とか時代によって呼び名を変えているだけで、正しい精確な判断方法の需要は常にありました。これからも無くならないでしょう。別にそれを「新しい哲学」と呼ぼうが、全く別の思考の枠組みであると見なそうが勝手ですが、人間はどうあがいても科学をやっているのだと思いますし、科学をやっていき、その手法によって築き上げられてきた文明社会に生きていくしかないと私は思っています。

 

そろそろ眠くなってきたので寝ますね。おやすみなさい。良い夢が見られますように。