スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

絶対的な正しさ

「私の辞書に不可能という文字はない」という言葉を知っているでしょうか。

ナポレオンが言ったとされる言葉ですが、実際にはナポレオンも多くの失敗を犯しています。もちろん、この言葉には文脈がありまして、実際には部下が不可能と手紙に書いた事に対して「フランス語にはそんな言葉はない」と返信したものが変化したのだと言われています。

フランス語で不可能はimpossibleですので、実際には不可能という言葉はありますね。後世になっても語り継がれているのは、ナポレオンが言った事は変だという民衆の思いからかも知れませんね。

似た言葉に、モハメド・アリの「不可能というのは意味をなさない」という言葉、impossible is nothingがあります。これは意味合いとしては不可能はない、ではなく不可能という言葉を言い訳に使うなというニュアンスのようですね。

確かに人間は、自分にリミッターをかけて、実際にはできる事でも困難そうだと無理だと言ったりします。この無理という言葉も、道理に適わないという意味ですから、不可能という言葉に近いでしょう。

 

前置きはここまでにしたいと思います。この文章で私が言いたい事は、人間には限界があり、不可能があるという事です。又、それ故に、絶対的な正しさというものは人間には実現困難であり、様々な「答え」は暫定解であり、人間は正しさに少しずつ近づいていく、漸近するしかないだろうという事です。

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以前、可謬主義という考えについて書きましたが、科学も可謬主義であると言えるでしょう。科学は固定的な絶対の正しさの尺度ではないかも知れません。科学というのは、正しさを求める地道な批判と検証の積み重ねです。だからこそ、科学は信用に値します。(教義に対する信仰ではないので)

 

ちょっと前にXである人物とやりとりをして、この事について考えました。(蒸し返したくないのでぼやかして書いています)その人物は、私に科学が分かっていないと言いました。科学は、時に答えが逆転する事があると彼は主張しました。

私もそうだと思います。パラダイムシフトという言葉があります。(この言葉自体は今は廃れてきていてあまり使われないようですが)以前、正しいとされていた事が逆転して間違っていたと判明する事はあり得ます。

 

しかし、これを以て科学は不完全で、あらゆる答えは逆転しうるという発想に至るのは間違いです。科学の要件を簡単に言い表す事はできないのですが、ある科学者達はこう言っています。

「良い科学とは、自分の仮説の間違いを証明する実験を組む事である」と。

なるほど。意味が分かるでしょうか。要するに、良い科学者ならば、自分が証明したいと思っている事が実は間違いではないかという事をまっさきに確認するのだという事なのです。

 

全能の神について思い浮かべて下さい。私達は、限界を持っている部分知、部分能の存在なので、全能の神については想像する事もできません。

いるという想定は可能かも知れませんが、確認する方法は定かではありません。ですから、神の存在証明というのは、証明が不完全であると見做されるか、不可知論的な議論に落ち込んでしまい決着がつかないものです。

神学論争と言えば、不毛な議論の代表格のようにも言われます。こういう事柄を総じて反証可能性がないと言ったりします。

反証可能性反証主義は今では制約としては強すぎるとして科学の条件を言い表す言葉としては廃れていますが、あからさまに反証可能性がない事柄については、それが間違っているという実験を組む事もできないので確証する術がない訳です。

こういう分野の問題は、通常では「科学」では扱えないので哲学のジャンルとされる事が多いです。哲学の中には確かだと確認できそうな事もあれば、それは筆者の独断と偏見に過ぎないのではないかという事もあると思います。(疑わしい事を排除しつつ科学と地続きに哲学を捉える自然主義という思想も存在します)

 

人間は部分的にしか正しさを確認できないというのはどうやら正しそうです。(逆に言えば、物事を限定して捉えればある程度の正確さを発揮できるとも言えると思います。前提を近づければ、実験が再現するという事です)

こういう前提から言えば、自分が言っている事を「絶対に正しい」と確信する事は危険だと言えますね。人間は仮説を作り、それを確認し絶えず修正していく生き物だと認識した方が良さそうです。

では何故、私は科学の答えが簡単に逆転しないと言う事ができるのでしょうか。

それは、多くの場合、科学が実験の再現を確認するという方法で知識の健全性を確認しているからです。普通、実験が真逆の結果を示してしまう可能性があるとしたら、まっさきに確認するでしょう。

大体の場合、問題は実験で導かれた「答え」を全体に適用しようとする際に起きます。統計的な知識を過度に一般化しようとする時です。

例で言うと、十人に効いた薬を千人に投薬しようとするような場合ですね。ですが、逆に何億人にも投与されている薬ならば、その作用機序はある程度明らかになっているので、安全だと言っても良いと思います。これはワクチンを念頭に置いた言及です。

 

又、よく、パラダイムシフトの代表例として天動説と地動説の事が例示されますが、天動説も相対的に見れば間違っていないのです。地動説の方がよりシンプルに物を説明できるので、地動説が主流になっているだけです。ですから、かつての宗教指導者や権威が間違っていたのは、天動説が間違っていたからではなく、地動説が正しいと認めなかったからです。こういう事はしばしばあり、相対性理論が発表された事においても似た事が言えます。古典力学は無効になった訳ではありません。量子力学が生まれましたが、今でも相対性理論の正しさは部分的に実験で確認されたりしています。十分な検証を経た科学知識はそんなに簡単に逆転しない、と私は考えています。

 

科学の「正しさ」というのは結構、微妙なものです。相対的にどちらも正しいと言える場合もありますし、いやいや、新しい理論の方が上位互換なので更新しようという場合もあるでしょう。両論併記するのが良いと言われたりしますが「両論」の片方が論じるに値しないレベルの偽科学である場合もあります。(疑似科学という言葉を使うのももったいないので偽と言っています)こういう判定をするのは、専門教育をある程度経た人や、専門家でないとできません。それに基本的には実験が不可欠です。複雑なので、素人は間違えてしまう事もあります。

 

人間は全能の神のような全部の前提を見通す「究極の俯瞰」もできませんし、それらの前提知識を組み合わせて正しい答えを導く「完全な演算」もできません。

ですから、自分の能力は過大に見積もらない事が寛容ですね。

それとは全く別に、これは明らかにおかしいのではないかという時の根拠を明示した理路整然とした説明の能力も重要で、これは両立すると思っています。

科学と評する内容が、ある時に逆転する事があるとしたら、それは検証が足りないからだと思います。確かに、検証には終わりはないですよね。全ての場合を検証する時間も労力もないので。ですが、だからと言って、全てを安易な相対化で、何も当てにならないので科学は信頼できないと言ってしまうとしたら、人間は「動物の骨を割って占いで政を動かす時代」に逆転しなければいけないのではないかと思います。

 

私は科学者ではありませんが、科学に携わる人々に尊敬の念を抱いていますし、科学というツールを重要なものだと捉えて今後も用いていくと思います。