この社会が生きづらいと感じる人は結構いるのではないでしょうか?
この文章は、そんな生きづらいと感じる人の苦しみを緩和する目的で書かれたものです。
結論から書くと、生きづらさを解消する為に重要なのは自分の考え方のクセや、自分の思想を見直す事だと私は考えています。ですから、自分を変えたいと思わない方はここでブラウザバックして下さい。
パラダイムという言葉があります。これは元々はトーマス・クーンが主張した科学哲学の用語です。chatGPTの解説によるとこうです。
「パラダイム」という言葉は、異なる分野で異なる意味を持つことがありますが、一般的には以下のように理解されています。
言語学のパラダイム:
言語学では、「パラダイム」という用語は、特定の語や語形の変化パターンや変化形を指します。たとえば、英語の動詞の過去形は「go」が「went」に変化するように、語形が変化するパターンは「動詞の過去形のパラダイム」と呼ばれます。
科学的パラダイム:
科学の文脈では、「パラダイム」はトーマス・クーンによって提唱された概念に関連しています。彼は科学において「パラダイムシフト」という概念を導入し、特定の科学分野において、ある時点で受け入れられていた科学的見解や方法論が、新たな見解や方法論に置き換えられる瞬間を指しました。これにより、科学の進化が説明され、新たなパラダイムが確立されることがあります。
社会科学と文化のパラダイム:
社会科学や文化研究の文脈では、パラダイムは特定の思考枠組み、アプローチ、理論的枠組みを指します。これは特定の学問領域で受け入れられている考え方や理論のセットを指すことがあり、研究者が特定のパラダイムの枠内で問題を考えたり調査したりします。例えば、社会学においては機能主義、構造機能主義、シンボリック相互作用論などが異なるパラダイムを代表しています。
コンピュータ科学のパラダイム:
コンピュータ科学の文脈では、パラダイムはプログラミング言語やプログラムの設計方法論を指すことがあります。例えば、手続き型プログラミング、オブジェクト指向プログラミング、関数型プログラミングなどが異なるプログラム設計のパラダイムを表します。
「パラダイム」は、特定の分野や文脈で特定の意味を持つため、具体的な文脈に応じて異なる解釈が必要です。どの分野における「パラダイム」について詳しく知りたい場合、詳細な情報が必要です。
私が述べたいのは、この中の科学的パラダイムと社会科学の文化のパラダイムに当たりますね。では、chatGPTにこんな質問をしてみましょう。(chatGPTは質問文を少し変えると全然違う事を述べるので、意味の検索には本当は向いていません。実際、この後、似た質問をすると哲学のパラダイムもあるとか言い出しました)
「続けて質問します。主に科学的パラダイムと社会科学と文化のパラダイムについてです。これらのパラダイムの中にいて、自分がパラダイムに属しているとメタに認識できていない場合、社会との軋轢が生じて、生きづらくなる可能性はありますか。」
パラダイムに属しているとメタに認識できていない場合、社会との軋轢が生じる可能性はあります。これは特に社会科学や文化のパラダイムに関連する問題として重要です。以下にその理由と可能性について詳しく説明します。
認識の不一致: パラダイムは、特定の価値観、信念、理論的アプローチに基づいて現実を理解し解釈する枠組みです。異なるパラダイムに所属する人々は、同じ事象や問題に対して異なる認識や解釈を持つ可能性があります。これは異なるパラダイムの人々がコミュニケーションをとる際に誤解や対立を生む要因となります。
文化的価値観の違い: 文化や社会によっても異なる価値観や信念が存在し、これらはパラダイムに影響を与えることがあります。異なる文化的背景を持つ人々が同じ社会内で共存する場合、異なる文化的パラダイムがぶつかり合うことがあり、誤解や対立が生じる可能性が高まります。
社会的圧力: 特定のパラダイムに従わないことが社会的な圧力や偏見を受けることがあります。これは、自身のパラダイムに合致しない信念や行動を持つ個人が社会から排除されたり、差別や偏見に直面したりする可能性を意味します。
対話と理解の不足: 自身のパラダイムをメタに認識していない場合、他のパラダイムに対する理解や対話の努力が不足することがあります。これは、異なるパラダイムの人々との対話や協力を難しくし、対立を助長する可能性があります。
したがって、異なるパラダイムとの認識の違いや軋轢を最小限にするためには、相互理解や対話が非常に重要です。異なるパラダイムに属する人々との対話を通じて、異なる視点や信念を尊重し、共感し合う努力が必要です。また、自身のパラダイムをメタに認識することも、他の人々とのコミュニケーションや調整に役立つでしょう。
続けて、このように質問してみました。
「ありがとうございます。要約すると、自分の考えを一旦仮のものとして保留し、自分の主張が絶対ではないという立場に立つ事と、自分の考えをできるだけ現状のパラダイムと軋轢が生じない形に調整するという事でしょうか。」
はい、要約すると、異なるパラダイムとの認識の違いや軋轢を最小限にするために以下のアプローチが役立つでしょう:
謙虚な立場: 自分の考えや信念を絶対的なものとせず、謙虚な立場を取ることが重要です。自身の主張が絶対的でないことを認識し、他の人々の異なる視点を受け入れる意思を持ちましょう。
対話と理解: 異なるパラダイムを持つ人々との対話や理解を努力しましょう。相手の視点や信念を尊重し、共感し合う姿勢を持つことが重要です。
調整と柔軟性: 自身のパラダイムを、現状の社会や状況に合わせて調整する柔軟性を持つことが役立ちます。過去の信念や枠組みが時折見直しや調整が必要な場合もあることを認識しましょう。
教育と情報収集: 異なるパラダイムについて学び、情報を収集することは、他の視点を理解するために役立ちます。自己教育や情報の多様な源から学ぶことを奨励します。
このようなアプローチを取ることで、異なるパラダイムとの軋轢を軽減し、協力や共存がより実現可能になります。
ここまでを前提として、私の言葉で簡単に解説していきたいと思います。
平たく簡潔に言うと、生きづらさは色々な理由で生じるものですが、その理由の一つとして、自分の考えが社会のパラダイムと合っていないという事が考えられます。
別の言葉で言うと、自分の信念が、社会の雰囲気と合っていない。要するに空気が読めていないという事です。この空気を読む事を忖度すると言って批判的に扱う人もいますね。何でも空気を読んだ結果、大量虐殺に手を貸してしまった人として、ナチスのアイヒマンが良く挙げられます。凡庸な悪などと言う言葉で形容されたりもしますが、要するに自分で考える事をせずに、ヒトラーの言う事を忠実に粛々と実行した結果、ものすごく悪い結果をもたらしたという事です。
すごく雑に言ってしまうと、空気を読んで自分の考えを持たなければ、自分の考えと、他人の考えの衝突によって生じる摩擦を軽減できるので楽です。こうして、人間の考えは多数派に巻き取られていきます。こういうのを確か「沈黙の螺旋」という言葉で説明していた学者もいたと思います。社会的な同調圧力によって、自分の意見が言えなくなっていくという訳です。
そもそも、自分の考えとは何なのでしょうか。好みとか趣向とか、あるいは性的傾向とかも含まれますね。あるいは宗教的信仰、哲学的信念も含まれます。こういうものが、社会と全く異なる事を希求していると軋轢が最大化してしまいます。良くあるのが宗教二世が自分の信念を持てず、教団の信仰を持つ事を強制された結果、社会のパラダイムとは全く異なる生き方をしなければならなくなり、強い生きづらさが生じるというものです。
では、何故こうした宗教とか教育において、社会の考え、パラダイムと軋轢が生まれてしまうのでしょうか。先ずは、ここら辺を整理する必要がありそうです。
一つに、社会は別に無謬ではないという事です。社会全体が間違った方向に行くという事も考えられます。ナチスは民衆の支持で誕生したのですし、アルゼンチンの福祉ポピュリズムも民衆の支持で没落に向かったのです。衆愚政治と言って、集団の判断が間違っている可能性もあるのです。これに反対して、集団が選んだ結果ならば、ある程度の正しさが担保されるという陪審定理というものもありますが、話が複雑になってしまうので、横において置きたいと思います。興味がある方は調べて下さい。
社会が無謬ではないので、人間は自分で正しい選択をしなければなりません。しかし、ここでも問題があります。人間は全ての判断材料を与えられている訳ではありません。客観とか、俯瞰という事は基本的にはできないのです。人間は全能の神ではなく、矮小な有限存在です。ですから、自分の持てる材料で、自分のできる範囲の最善を選択する事しかできません。
人は強く願った筈です。自分は正しく、あるいは何かしらの裏付けがある選択をしたい、と。ここで要請されるのが哲学です。
宗教もこの線で理解する事ができるかも知れません。哲学は絶対確実なものを求めようとしました。そこであらゆる事を疑ってみたりします。宗教なら、絶対確実なのは神という事になるでしょう。哲学は、それも一旦疑います。様々な主張があり得ますが、ある程度洗練されてきて、生まれたのが科学です。
デカルトの方法序説がサイエンス誕生の一つの契機だと言われてます。
(アフィリエイトの外部リンクを貼れるのが1記事三つまでだと失念してました)
科学の方法というものが色々と唱えられてきました。興味がある方は科学史や哲学史を勉強してみて下さい。科学哲学というジャンルの学問があります。
冒頭に戻りますが、この科学哲学で提唱されたのがパラダイムという概念です。
それまでは科学の方法は、実験によって検証された結論を受け入れるという強固な方法に裏付けられる、事実の学問と考えられてきました。しかし、科学の基礎には実験で確認できない信念が含まれる事が明らかになってきました。自然の斉一性とかがそれですが、様々な基礎的な公理を受け入れないと、既存の科学の体系は成立しない事が分かってきたのです。
カール・ポパーという哲学者が反証主義、反証可能性という概念を主張しました。彼によれば、誰かが何かを唱えた時、その結論は科学的プロセスによって証明できるのか、又、反対の主張によって逆の結論が証明できるのか…つまり反証できるのかによって評価する事ができるというのです。分かりやすく言うと、神の存在は証明も、その反証もできないので科学から追放べきだという訳です。非常に分かりやすいので支持されましたが、厳密に考えると、この反証主義も科学の基礎を反証できない事が分かってきて、幾つかの体系が疑似科学、つまり科学の要件を満たしていない事になってしまうのでした。例えば、進化論とかがそうですね。
そこで、この反証主義を批判していたクーンのパラダイム論と、うまく折衷で落としどころを見つけようとしたのが、ラカトシュという学者でした。彼はポパーの弟子でしたが、ポパーの主張の欠点を早くに見つけていました。更に、このラカトシュに難癖を色々とつけたのがファイヤアーベントです。ファイヤアーベントは、有益ならば占星術も科学の一つと言えるという名言?を残しています。ラカトシュの主張は今では廃れていますし、ファイヤアーベントの主張にも色々な批判が加わっています。私は、こういう流れをラリー・ラウダンという人の本を読んである程度掴みました。良ければ科学と価値という著作を参照してみて下さい。
ラウダン(ローダン)によれば、科学はこうであるという簡単な線引きはできないという事です。ですから、ここまでが正常な科学で、ここまでは異常な偽物であるとは簡単な尺度、つまり反証主義のような考えでは確かめられないのです。
ですが、ラウダンはファイヤアーベントの様な科学的アナキズムを唱えて、何でもかんでも科学と呼べばよいという事を述べていません。非常に複雑な議論になりますが、彼は科学においても一定の合意形成が重要だと述べています。
科学には様々な評価基準があり得ます。一つは観測と実験です。古典的な反証主義的な価値観ですね。追試によって再現性が担保されているかどうかも重要ですね。
次に、科学の基礎として無くてはならない概念についての考察です。自然の斉一性とかがこれに当たります。哲学的な思弁を通して、論理的矛盾がないか精査されるのです。
最後に、統計的な裏付けが必要とされると私は思っています。科学は絶対確実な基準を全てに要求するのではなくて、変化していく世界の中で、できるだけ最善の答えを見つけられるように試みる営みだと言えると思います。だから、蓋然性、確率の問題になってきます。この三つが科学の要件を簡単に説明したものになります。本当は、もっと複雑な判断プロセスを経て、専門家が様々な角度から批判して、結果、合意形成されたものが科学の理論になるのです。
パラダイムを避ける事はできないかも知れませんが、できるだけ普遍的なものを求めようとして、自身の主張に対して様々な検証を加えていく営み、自分の仮説を間違っているかも知れないとして反証しようとする営み、これこそが科学と言えるかも知れません。
非常に長くなりましたが、まとめるとこうです。
世の中の様々な考えは、一過性のパラダイムかも知れない。
しかし、パラダイムと全く異なる信念を持っていると軋轢が生じる。
そこで、パラダイムが果たして普遍的な価値を持っているのかを判定する必要が生じる。ここで必要とされるのが科学的思考だと私は思います。
社会が間違っているのか、自分が間違っているのか、科学という尺度を通して(科学があらゆる分野に通用する万能の方法ではないかも知れないとしても)精査するのです。
そして、客観はないにせよ、ある程度、客観的根拠があると言える内容の場合は自分の主張をする。逆に自分の主張に何ら根拠がなく、ただの思い込みに過ぎないと思うのならば、自分の主張を変えていく訳です。自分が批判するのがパラダイムなのか、自分の主張こそが一過性の廃れていくパラダイムなのかを判定し続けていくという事です。以前、この事について書こうとして、自分の時間や力の無さから中途半端になってしまった文章があるのですが、可謬主義というのが私の立場に一番合っています。
いつも、自分がパラダイムの中にいるのかも知れないという考えを忘れない事が重要だと思います。逆に自分が正しいと言いたくなる場面もあるでしょう。その時には外部に根拠を必要とするのです。それがなく、自分が自分がと正しさを主張すれば破滅を招く事になります。尤も、科学的なデータを装って偽の結論を導く詐欺師が世の中には沢山いますので、本当に注意が必要です。
余談ですが、反ワクチンというのもそうです。ワクチンによって死亡する例がないとは言えません。体質的に合わない人もいるでしょう。しかし、ワクチンで人口削減、大量死とか、健康被害がこんなに出ると言って、癌とか不妊のリスクで脅すのは詐欺師です。バランス感覚を忘れないで下さい。そして、適当な事を言い散らかす偽医者に騙されず、きちんとかかりつけ医師に相談して、おかしいなと思ったらセカンドオピニオンを受けて下さいね。
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この文章を簡単に解説した続編を書きました。