スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

疑似科学と陰謀論について リテラシー2

少し思う所があり、自分なりにこの言葉を再定義してみようと思います。

もちろん疑似科学という言葉も陰謀論という言葉も世の中では既に使われていて、独自の用語ではなく公的な意味がある言葉です。

疑似科学について考えている明治大学のサイトです。参考になるので、私はたまに見ています。

gijika.com

疑似科学の定義はこんな感じです。ウィキペディアで恐縮ですが。

疑似科学 - Wikipedia

陰謀論はこうです。

陰謀論 - Wikipedia

学術論文でウィキペディアを引用するというのは信頼性に欠けるので普通はしないのですが、ここでは簡単の為に紹介します。お役立ちを目的とした個人ブログですし。ウィキペディアが参考文献にしているものをざっと見てみるとかはまあまあ役に立つ事があります。

疑似科学のページにはこう書かれています

疑似科学 英: pseudoscience)とは、科学的で事実に基づいたものであると主張されているにもかかわらず、科学的方法とは相容れない言明・信念・行為のことである。似非科学や偽科学などとも呼ばれる。疑似科学は、矛盾、誇張、反証不可能な主張、確証バイアスへの依存、他の専門家による評価への開放性の欠如、仮説形成時の体系的実践の欠如、および疑似科学的仮説が実験的に否定された後も長期間に渡って信奉されていることなどを特徴とすることが多い。』

『科学と疑似科学の区別は、哲学的・政治的・科学的な意味がある。科学と疑似科学を区別することは、医療・鑑定・環境政策・科学教育などの場合は実用的意義を持つ。気候変動の否定・占星術錬金術代替医療・オカルト信仰・創造科学などに見られる疑似科学的信念と科学的事実や理論を区別することは、科学教育とリテラシーの範疇である。』

疑似科学は危険な影響を及ぼす可能性がある。たとえば、疑似科学的な反ワクチン運動や、病気の代替治療としてのホメオパシーの推進は、健康上の効果が実証されている重要な医療行為を人々が放棄することになり、不健康や死につながる。さらに、伝染病に対する正当な治療を拒否する人々は、他の人々を危険にさらしかねない。人種や民族の分類に関する疑似科学的理論は、人種差別や大量虐殺につながっている。』

疑似科学という言葉は、不正確に、あるいは欺瞞的に科学として提示されているものであることを示唆しているため、特に疑似科学を支持している人々からは軽蔑的に捉えられることが多い。したがって、疑似科学を実践・擁護している人々は、この表現に異議を唱えることが多い。』

『英語では、ブードゥー・サイエンス(英語版)(英: Voodoo science)、ジャンク・サイエンス(英語版)(英: Junk science)、バッド・サイエンス(英語版)(英: Bad science)とも呼ばれる。 

一方陰謀論はこう書かれています。

陰謀論(いんぼうろん、英: conspiracy theory)とは、なんらかの有名な出来事や状況に関する説明で、根拠の有無にかかわらず「邪悪で強力な集団(組織)による陰謀が関与している」と断定したり信じたりしようとするものである。この言葉は、偏見や不十分な証拠に基づいて陰謀の存在を訴えているという、否定的な意味合いを持って使われることが多い。 「陰謀論」という言葉は、単純に秘密の計画を指す「陰謀」とは異なり、科学者や歴史家などその正確性を評価する資格のある人々の間で主流の見解に反対しているなどの特定の特徴を持つ「仮説上の陰謀」を指すものである。』

 

共通する要素としては「事実ではないのに、あたかも事実であるように信じ込んでいる」という事が言えるでしょうか。疑似科学と呼ばれるものの中には有望な未科学があるかも知れません。また、陰謀論と陰謀は異なり、陰謀は実際にある可能性がありますが、陰謀論は証拠がないのに陰謀があると訴えている点で異なります。

両者で決定的なのは、証拠の評価です。

疑似科学陰謀論もおかしいのは、根拠としては薄弱なものを用いて正当性を訴えている部分にあります。もしも根拠が十分にあり、また推論の方法にも問題がないのであれば、それは疑似科学陰謀論ではなく、科学であり実際の陰謀の指摘と言えるのです。

 

では、どのように証拠を評価したら良いのでしょうか。これは結構難しいです。私の周りにも疑似科学陰謀論を信じている人は少なくありません。マスコミや広告産業がそれを支持している場合もあります。普段から科学教育に親しんでいる人は、科学の基礎について様々に考えているでしょう。そこで、大体のものは感覚的におかしいぞ?と思う事ができます。

例えば、定期的に叫ばれるエネルギー問題の解決を謳ったフリーエネルギーと言われるものについてならば、熱力学の知識があれば幼稚なものはすぐに分かります。人間には永久機関は作れません。他にも万病に効く薬みたいな代替医療の怪しげな何かについても、そんなものはないと言い切れます。STAP細胞やその偽物みたいなやつですね。ちゃんとした人工多機能幹細胞、ips細胞の研究にも拒絶反応とか色々な課題があり、すぐに何にでも使える訳ではありません。

うまい話があったら、先ず疑った方が良さそうです。何の代償もない、虫の良い話は殆どないと言って良いと思います。

 

科学と疑似科学を見分ける「簡単な基準」はないと言われています。これは科学哲学という学問で線引き問題と言われています。

ラリー・ローダンという哲学者によれば、以前から言われてきたような基準(例えば、反証可能性)は、科学と疑似科学を区分けする利益よりも、科学の発達を制約する要素の方が強い為に採用できないのだそうです。ローダンの議論は複雑で、簡単には理解できないものです。

関連した記事を何個か書いています。私自身、もっと勉強して整理していきたいと思っています。

gomiblog.hateblo.jp

 

gomiblog.hateblo.jp

 

私としては、最近、情報の信頼性を評価する尺度、ものさしを導入したいと考えています。

医学にはエビデンスレベルというものがあります。エビデンスにも格付けがあって、評価の上下があるという考え方です。繰り返し綿密な方法で検証されたものが高レベル、まだ検証されていないが、誰かによって訴えられたものが低レベルです。専門家の主張でも、検証されていなければエビデンスレベルは最低になります。この考え方にも色々な問題があると思います。例えば、まだ検証されていないけれどもとても珍しい症例で、実際に存在する不可解な現象を誰かが訴えた所、そんなものは強いエビデンスがないから存在しないと言われる可能性もありますね。こういう問題を内包しているものの、レベル評価は便利なので世界的に採用されています。使いこなしている人は、エビデンスレベルを参照しながらも、絶対のものとして信奉せず、様々な角度から懐疑的に見て検証を重ねていっているようです。

どちらにしても、エビデンス、つまり科学的根拠が全くないものは駄目なのです。何故、駄目なのか、それは結局、突き詰めていくと事実ではないからだと思います。

 

例えば、目の前にコップがあって水が入っている時に、それが多いか少ないかを人間は評価する事がありますが、こういう評価は曖昧です。少なくても多いと言う人、その逆も考えられます。要するに主観的だというのです。だから、そういう問題が起こらないようにする為に、人間は「量りや単位」を導入しました。容器に目盛りがついていれば、どれくらい入っているかを単位で主張する事ができますね。こういうのを客観的と言う事ができるかも知れません。(わずかな誤差はあるので完全な客観というものはないかも知れないですが)

ニュースでも、誰かが殺害された時に犯人とおぼしき人をすぐには犯人とは呼ばず、容疑者と呼びますが、これは裁判ではっきりした事が分からない内は無罪の人を犯人扱いする可能性がある為ですね。また、殺人事件があった際に、本当にひどい最低の事件だという事は心情には寄り添っているかも知れないですが、主観的な評価です。こういう主観を客観軸の事実列挙から排除するのは意外と難しいのです。

 

ただ、何かを調べる際には、それは本当なのか?どういう主張なのか?誰が言っているのか?どういう目的で言っているのか?そして、最後に「自分がそう思いたいだけなのではないか?」という事まで疑ってみる事が重要です。特に最後が重要で、人は信じたいものを信じようとします。陰謀論で言えば、自分ではなくて世界が悪ければ自分は悪くないから楽になれるでしょう。(長期的に見ればそれは事実ではないので、不利益を被る事になりますが)

善悪の判断も主観的価値基準であると断ずる立場の哲学もあり、この辺は非常に複雑な問題を孕んでいますが、私としては不完全な人間なりに、自分のできる事の限界も見極めつつ、できる限り事実に基づいて考え、行動していきたいと思います。これからもよろしくお願いします。