この世には膨大な情報がある。
人間はその全てにアクセス出来ない。
人間が目を通せる情報はその中のほんの一部に過ぎない。
では、そんな情報の謂わば洪水の中で、どうすれば溺れずに生きていく事が出来るのだろうか。大昔、大洪水が人類を滅ぼしたという伝説が残っている。(全地球ではなく局所的なものであったかも知れないが)ユダヤ・キリスト教では、ノアの箱船の逸話として、今でも信じられている。それとは別に、現代では情報の洪水が起こっている。自分で真偽を見分けられるリテラシーのある人間は泳いでいく事が出来るが、そうではない人間は溺れてしまうのだ。
以前、リテラシーという文章を書いた。この中で物事の真偽を判別する方法を幾つか提案した。しかし、リテラシーがあっても人間は思想的偏り、バイアスを持っていて判断を誤る場合がある。又、証拠が不十分で間違った答えを信じてしまう可能性もある。
以前に提案した方法を全て試してもそれだけでは100%ではない。
高名な学者も(だから専門外の素人はもっと)判断を誤る可能性はある。
では、どうしたら人は判断を誤らないで物事を取り扱う事が出来るのだろうか。
結論から言うと、判断を誤らない絶対的な方法というものは存在しない。
どのような人間も間違える可能性を持っている。その可能性を出来るだけ低くする事しか出来ないのだ。
逆説的に言うと、人間は間違えるという考えを持つ事の方が健全だという事である。これを可謬主義と呼ぶ。
私は全てを知らないし、知る事は出来ないとか、私は間違える可能性を持つという方が、むず痒いかも知れないが健全だ。
逆に、私は全てを知っているとか、私は絶対に間違えないという考えは狂気の入り口である。
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人間は失敗し、失敗から学ぶのである。だから強いて言えば、失敗しないようにするよりも、失敗した時にどうするかを考えた方が良い。
確か、何時だったかインドかどこかで潜水艦のハッチを閉め忘れて浸水し、高額な潜水艦が全て駄目になったという出来事があった。こういう場合を想定して、絶対にミスが許されない場所には「フールプルーフ」や「フェイルセーフ」というような仕組み、機能を持った装置を取り付けておくべきである。要するに人間の間違いを警告、修正する安全装置である。
そう考えてみると、人間が白か黒かを決定的に判断出来る事は実は少ないのではないかという結論が浮かび上がってくる。
例えば、ある人が何か疑惑をかけられている時、その人が白か黒かを判別するのは難しい。恐らく、実際には皆、(あらゆる点において完全無欠で罪の無い聖人のような)真っ白ではなくて、どの程度、黒に近いのか、あるいは白に近いのかを調べる事になるのだろうが、一度かけられた疑いを払拭するのは容易ではない。(だからこそそもそも疑われない事が重要になる)
この世に、絶対に信頼して安心できる権威は存在しない。
私は、今はまだ判断材料が少ない物事については脳の中の「保留のボックス」に入れる事をイメージする。哲学的にはエポケー(判断中止)と呼ばれる。
ただ、この世で生きていくに当たっては、判断を迫られ保留が出来ない場合がある。何のポジションも取らないという事は許されない。だから、後悔しない選択をして欲しい。その為には、一生懸命に調べ、考えて物事を多面的に見る事が必要だ。
最後に。
溺れる人は無駄に藻掻くと言う。藻掻かずに、体を動かさないでいれば人間は浮かぶと言う。これは情報の海にも同じ事が言えるかも知れない。
藻掻いて真実を探している内に、逆におかしな方向に行く事もあり得る。陰謀論や疑似科学に嵌まる人にありがちだが、おかしな情報源に触れて、世の中を馬鹿にして「勉強」してしまったが為に、オカルトや詐欺に引っかかる人が多い。
現代の情報の洪水において(人々を洪水から救う伝説の)箱船というものはないのかも知れない。しかし、比較的上手く泳げている人は、何とか人々を救おうと、小舟なら浮かべているかも知れない。本来ならば、大学が箱船の役割を果たすべきだが、大学で論ぜられる学問も相対化していたりする。どうにか上手く泳いでこの膨大な情報の海を泳ぎ切り、楽園は無いかも知れないが陸地に辿り着きたいものである。