スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

自由と愚行権 自己責任論

愚行権という言葉を聞いた事がありますか?

 

ジョン・スチュアート・ミルの自由論で語られた概念です。

愚行権とはたとえ他人から愚かでおかしな行為だと評価される行為であっても、個人の自由の領域に関する限り誰にも邪魔されない権利の事です。

 

他者危害原則という言葉を知っていますか?

個人の自由を制限して良いのは、他人に危害を与える事に繋がる行為だけに限られるという考え方で、私はこの考え方が好きです。

良く日本人は、他人に迷惑を掛けないようにしようとか、他人に迷惑を掛けなければ何をしても自由だとか言ったりします。この考え方に近いですね。

 

愚行権というのは、この他者危害原則から導かれる帰結です。

例えば、喫煙、飲酒、一部の薬物の使用、賭博、冒険などが該当します。

眉を潜める様なものを含めると、自傷行為、自殺、臓器の売買、妊娠の中絶、売春等も該当するという見解もあるようです。

 

人に迷惑をかけないというのは案外難しく、例えば売春は人に迷惑を掛けないかというと微妙な気がします。性病や何らかの感染症に掛かるリスクがあったりしますね。他にも人間関係のトラブルに巻き込まれる可能性もありそうです。中絶も、胎児の意識や人権を考えると「人に迷惑を掛けない」かどうかが微妙そうです。薬物乱用も、錯乱して人に迷惑を掛ける可能性がありそうですね。

 

ある人が、「バイクに乗るのは合理的ではないと言われたが、自分は愚かであると分かっていても好きだから乗る」と言っていました。確かにバイクは統計的には死亡事故が多いので、危険なのですが、格好良さとか快適さ、楽しさを優先して乗るという訳です。これは愚行権で擁護できそうな気がしますし、一般的には許されていますね。

 

この愚行権ですが、結構勘違いして語られる事が多いみたいです。

と言うのも、自由には責任が伴うからです。

自己責任論という言葉を聞いた事がありますか?

ネオリベラリズム(実際の新自由主義の定義とは別に)で非正規雇用が増えたのは政府の失策だ。全ての貧困を自己責任論で片付けようとするのは間違いだ、等と言われたりしますね。

基本的に、自己責任論という言葉はネガティブな文脈で使われる事が多いようです。

 

しかし、ジョン・スチュアート・ミルはこう考えたようです。

人間は、人の自由を侵害しない限り自由だ。

しかし、自分の行動によって引き起こされた帰結は、自分の責任で引き受ける必要がある。つまり自分の行為の報いは自分が受ける。

 

そう考えると、愚行権というのは、自分の肉体を破滅させる権利は自分にあるという肉体の所有権の考えに近いのかも知れないですね。

今の世の中は、そこまで考えて自己責任という言葉を使っているのでしょうか?

少々疑問があります。人は自由を求めてますが、自由とは自己責任を引き受けるという事とセットなのです。

逆に面倒を見て欲しいと思うのならば、自由は制限されて然るべきという事になります。少し政治的な主張になりますが、保守的な価値観とはこういうものです。

 

今の世の中のリベラリズムは、自由を主張して、政府の力を削ぐ、もしくは無くす事を求めながら、手厚い福祉を求める都合の良いアナキズムだと言われる事があります。

確かに、自分勝手に行動し滅茶苦茶な結果を引き起こしてから尻拭いをして貰おうというのは虫が良いですよね。最初から然るべき手順を踏んでいればこじれないという事も多そうです。

 

私が何故、愚行権について再考していたかと言うと、ワクチン接種について考えていたからです。防疫の観点から言うと、ワクチンもマスクも有効だと私は考えています。しかし、愚行権の観点から言うと、自分が破滅する権利を個人が有している事になりますので、ワクチンを打たないのもマスクをしないのも自由という事になるのです。

ただ、その場合、症状が酷くなってから病院に行って、自分を治せないのは医者のせいだ等と言うのは不当です。予防する方法があったのに、それを選択しなかったからです。体質の問題で摂取できない場合は除き、愚行権、自由を行使して自分が病気になったならば、その責任は引き受けなくてはいけません。

 

ずっと、この事についてモヤモヤしていました。それと言うのも、ワクチン接種に反対し、行動制限に反対し、マスクも反対する人が、病気になったら医者を責めるとか、社会的に問題が起きたら医者を責めるという場面をSNSで散見したからです。

 

医師はきっと、どんな風になってもそれなりに対処してくれるでしょうし、心ある人ならば懸命にあなたを助けてくれると思います。でも、医者に全ての病気を治療する責任というものはそもそも無いのではないかと私は最近、考えています。

壊した物を直してくれる修理工がいたとして、その修理工は代金が支払われて、直せる範囲なら修理を請け負うでしょう。しかし、もう手の施しようがないとか、報酬が見合わないなら断る権利がある筈です。他者危害原則に基づく自由を基礎にするのならば、医師は、患者の奴隷ではなく、患者を選ぶ権利があるでしょう。

 

愚行権を行使して、自分の体を破壊する事は「自由」です。

しかし、その自由は片道切符だという事を忘れないようにしたいものです。

自由は元々、重いものなのですね。