スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

2024年、2月25日の日記

昨日はボランティアに行ってきました。

プライバシーの関係で詳しくは書けないのですが、皆でレクリエーションをしました。楽しんでもらえたようで良かったです。できるだけ長く続けていきたいと思っています。

今日は、自宅でゆっくり休みました。友達が来たのでちょっとしたお菓子的なものを作りました。出掛けると高くつきますが、自炊でおうちカフェなら安く上がって良いですよね。

 

特に代わり映えのしない日常ですが、こういう当たり前の日常が貴重なものなんだろうなと思います。ウクライナパレスチナでは戦闘が行われていますが、早く問題が解決し、平和が戻ってくれる事を祈るばかりです。

 

宗教は、時に法律よりも上位の存在として神を持ち出し、その神の意向として正義を唱えますが、これは絶対の神ではない人間による権威の簒奪であるように思います。人間は相対的存在なのだから、国際法に従うべきだし、民間人を殺傷するのはやめるべきです。この辺りに民主主義的な政治の難しさを感じますね。

大勢が集まって何かを決めても、それが普遍的に正しいとは限らない。合意できない少数派の意見をどこまで取り込めるかという事に困難が感じられます。

 

自然科学の問題であれば、実際の検証を通して何かを調べる事が可能ですが、それが実際の物質世界を超えた哲学の問題、あるいは宗教の問題だとそうもいきませんね。

倫理を、人間の欲求や群れの利益を基礎として科学的に定める事は不可能ではないと思いますが、それを一つのイデオロギーとして相対化する思想が出てきた時にどうやって折り合いをつけていくのかが難しそうです。又、多数派の利益が、少数派の権利と衝突した時に、トロッコ問題のようなジレンマがありそうです。

 

大きな社会問題や世界の問題について私は無力に等しいですが、最近は日常の生活において一つ気をつけている事があります。自分の自由を確保する為に、人の自由を尊重しなければならないというジョン・スチュアート・ミルの他者危害原則のような考えが私は好きなのですが、余程利害が衝突しない限り、他人には干渉しないという事です。又、もしも利害が衝突したとしても、自分が可能な限り譲るという事です。

キリスト教の聖書の言葉に「敵を愛しなさい」という言葉があります。

又、右の頬を叩かれたら、左の頬を差し出しなさいという言葉があります。

もしも、この言葉を完璧に守ろうとするのならば、戦争は起こらない筈です。

敵とは誰でしょうか。人間は誰でも自分が少なからず正しいと思っていると思います。しかし、神のような絶対的超越的存在を想定した場合、人間が全能の存在のように判断できているとは思えません。ですから、もしも宗教を熱心に信じているのであれば、逆に自分の正義を疑うべきです。(とはいえ、科学的根拠がある場合はそれを捨てる必要はないと思います)私はそういう点で、今の世界で起こっている戦争の大義についてかなり懐疑的です。自分とは180度異なる考えを持つ「思想的な敵」をどこまで許容できるか。これが現代社会における多様性の問題だと思います。

難しい事ですが、自分のできる範囲でこうした考えを日常に取り入れていきたいと思っています。