スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

よりどころ

お題「自分にとっての「ライナスの毛布」」

 

ライナスの毛布とは、安心毛布と言って執着している対象の事を言うそうである。

人間には皆「よりどころ」があると思う。

人によってそれは違う。

例えば、ある人にとってはそれが家族や恋人であったりするし、別の人にとってはお金や地位かも知れない。宗教を信じている人のよりどころは聖典や聖句、あるいは崇拝対象である神である。

 

ある種の哲学によれば、人間が生まれてきたのは偶然であり、生きる意味などないのだという。これは最大の自由であるが、何の制約もない点で恐ろしくもある。

実存主義者であるサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と述べた。似た様な事を別の角度から言っているのがエーリッヒ・フロムで、彼によれば人はあまりにも自由だと、それに耐えられないので自由から逃れようとするのだという。その結果、強いリーダーを求めて全体主義体制が出来上がったのだと分析した。

自由な世界では、孤独や責任を己が一人で引き受けなければならないからだ。つまり人間は完全な自己責任論には耐えられないので「よりどころ」を必要とした訳である。

一方、仏教では愛着は煩悩であるとされ、あらゆる執着を手放す事が求められる。

人はどこまで、執着しない生き方が可能なのだろうか。

 

私にとってのライナスの毛布にあたる「よりどころ」は何だろうか。

それは最近で言えば「信用」という言葉である。

宗教の話になってしまって恐縮だが、キリスト教では神を信じる事が求められる訳だが、次いで求められるのは隣人を愛する事である。大工イエスに拠れば、この二つの戒めに律法と預言者全体がかかっているのだと言う。これが基礎である。

仏教では愛は煩悩であり、捨てるべき執着である。

では、どちらが正しいのだろうか。私はいちいち調べてみた。それによると、愛はギリシャ語ではアガペーヘブライ語ではアハヴァー等と言う語で表されるのであった。

このアガペーとかアハヴァーと言う語は無償の愛を意味する。

日本語で言うと、恋愛(エロース)というよりも愛情であり、慈しみや憐れみの意味を持っている。

又、旧約聖書に拠れば、単に「愛」と訳されている箇所はアハヴァーの他、ヘセドという語も使われているのだという。このヘセドという語は(ヘブライ語は多義的であるが)愛の他に、契約の意味が色濃い。

 

つまり、隣人を愛せというのは、愛着や恋愛の事ではなく、憐れみ、契約を履行せよという意味なのである。

 

結婚の時にこんな口上を上げるのを聞いた事があるだろう。

「その健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす事を誓いますか?」

色々とバリエーションはあるだろうが、大体こんな具合だ。

この言葉のポイントは良い時だけではなく、相手が病んでいたり、貧しかったり、苦しんでいる時も愛するべきだという事である。単なる損得を超えている。これは要するに一種の契約である。

聖書でも信仰を結婚に喩える事があるが、結婚とは一種の契約なのである。

良く、恋愛感情で突っ走り、結婚したけれどもこんな風になるとは思わなかったと言って離婚する人がいるけれども、ああいうのは結婚を勘違いしているのだ。結婚は好きだからする、のかも知れないが、単に自分に都合の良い好きだからという感情で流されてするものではなく、一種の緊張感のある契約なのだと知るべきだ。つまり、重要なのは相手の、そして自分の誠実性である。

 

貨幣の価値の源泉も信用であると言う。貨幣の上に信用があるのではなく、信用があるから貨幣に価値があると見なされるのである。信用がなければ商取引が差し障るのは良く分かるだろう。これも一種の契約なのである。マルクスは「愛は金で買える」と語ったそうだが、実際にはお金で買える愛(着)はすぐに無くなってしまい、愛(信用)があるからこそお金が集まってくるのである。

 

ハーバード大学の70年に渡る追跡研究によると、人間の幸福度に大きな影響を与えるのは、富裕である事よりも、良好な人間関係が築けているかどうかだと言う。

確かに、犯罪等をして人間関係が破壊されれば孤独になるだろうし、幸福どころではないだろう。信用は重要であるし、特別な理由がない限り、契約は履行しなければならない。約束を守らない人間よりも、約束を守る人間の方が信用される。法律を守る事も、国家との契約である。

 

信用が破壊されれば直すのは難しい。壊すのは簡単で一瞬だが、直すのは恐ろしく難しい。これが信用である。

だから私は信用を(壊さない様に、そして維持出来る様に)重要視している。信用があれば、人は上手く生きていけるが、信用がなければ人の人生は辛いものになるのだ。

 

これは異端的な解釈かも知れないが、私はこう考える。

新約聖書にはこう書かれている。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

ルカによる福音書 17:20‭-‬21 新共同訳より引用

聖書的にはイエスに拠れば、神の国、つまり天国とはどこかにあると言えるものではなく(この世のものではないとも言われる)人々の間、あるいは翻訳によってはただ中にあるものだとされるのである。これは人間関係の事ではないだろうか。

 

つまり、天国とは愛、あるいは信用が成り立っている世界の平和の事である。

ここから、キリスト教の要諦である「敵を愛せ」も導かれる。

もし、思想が異なる相手を殺戮せよという教えであれば、人間世界には様々な思想を持つ存在がいる以上、宗教が統一されない限り、戦争はなくならない事になる。敵とは180度思想が異なる相手であると私は考えている。そういう相手も愛する事によって、世界の平和は完成する。そして、ここで言う愛とは単なる親切とか、好きだ好きだという意思表示ではなくて、憐れみと契約の履行なのである。

仏教も、これについて特に異論はないだろう。仏教が捨てろと言っている愛は、煩悩の愛着であって、信用ではないだろうから。仏教はむしろ人に誠実であれ、不妄語戒が言う様にデタラメな人を惑わす事を言うな、と言っているのであるから。

 

「誠実に生きろ」とか「デマを撒くな」とか「出来るだけ正確に物事を表現せよ」とか言う事をこの解釈は妨げない。

良く、キリスト教根本主義の人達は仏教や他宗教を偶像崇拝として攻撃、批判対象にするが、イエスの言葉に対して本当に忠実で、キリストを「原理」とするのであれば、敵を愛せという言葉をも忠実に守るべきなのである。この意味で、キリスト教根本主義原理主義(キリストとその言葉を原理とせず、己の解釈を原理としていると言う点で非常に皮肉的であるが)はおかしいと言える。

 

又、信仰という言葉を分析した際、私に言わせればこうなる。

神が全知全能なのであれば、人間は無知無能に近い有限の存在なのであるから、信仰をもっていればいる程、自分は「神に遠い」と感じるべきなのである。

だからこそ、キリストが人間でありながら神であるとされ、人間と人との間を執り成す存在として必要とされるのだろうから。

信仰者はむしろ己の無知を認めるべきである。だから神の言葉を代理出来る等と思ってはならない。

 

ソクラテス無知の知(これは現代では間違いとされ無知の自覚が正しいとされるが)を持っていた。

ソクラテスは「神」を信じていたという。(神託を受けたのはアポローン神殿)

ソクラテスは誠実性を重要視し、法律を遵守した。しかし、その当時の有力者達を問答で追及した結果、当時のギリシャの神々を信じていないとして(逃げる事は可能だったが自ら死刑を選択した)処刑されたのである。

ソクラテスの信じる神は「詩人の作り事の創造物」ではなく、むしろ人を創造した第一原因であろうと私は考える。

その第一原因は、人間に何を求めているのか?それが哲学の始まりの問いだったのではないか。

そして、ソクラテスは問答法の末に、こう結論したのではないだろうか。

我々は知らないのだ。

究極的には何が正しくて、何が間違っているのか分からない。(神とか宇宙の成り立ちのような壮大な問いではなく、限定した条件下では正否が分かる場合ももちろん多くある)

だが、現実の世界はこうして存在する。そして人間は生きる為に欲求する。

私達は、人々との生活の中で、より良い生き方を目指して考えていく。

人々は、真理を知りもしないで知っている風に装っている。

真実、良く分からないまま、人々に対して自分も分かっていない事をさも、分かっている風に教えている。少なくとも、自分が良く分かっていないのに、他人に知っているかのように装う事は不誠実である、と。そういう人間が、世界を幻惑し暗くしている、と。

 

ソクラテスの神は、こういう神である。もしも全能の神を信じるのであれば、神はどうこうだ、等と言う事を知りもしないで言うのは不誠実であって、神の意向に反しているのである。聖書もこう解されるべきではないか。私達は神の言葉とされる聖書を現代の解釈で読む事は可能だ。しかし、その本質的な意味は分からないのである。

私達は神と同等のレベルで聖書を読む事は不可能なのである。

だから、私達が現実の世界で出来る事は、文章を幅をもって解釈し、真理に漸近する事なのであると。

 

私は、人と人との間の信用を重要視している。これが私の安心毛布である。

私自身は偉人の様な誠実な人間ではない。

しかし、そこから遠ざからない様に、又、出来るだけ近づける様に考え続けている。

これが私の祈りである。