世の中には様々な宗教があるが、私は以前から腑に落ちない事がある。
例えば、浄土宗や浄土真宗は、南無阿弥陀仏を唱える。これにより、死後に浄土(西洋で言う天国)に行けると言われる。(正確には仏教は輪廻からの解脱を目指すものであるが)
他の宗派もこれに近く、他力本願の念仏ではなく自力の修行が必要であるとしながらも、その道の行いを通さなければ地獄へ落ちると教えている。
だが、本当にそうだろうか。
例えば、アマゾンの奥地の未開の人達は(今、現代文明から隔絶した暮らしをしている人はいないか、少ないだろうが)シャーマンを崇拝してきた。森の神を拝んできたのである。念仏なんか知らないし、仏教の修行も知りようがない。他の地域にも似たような事が言える。
これと逆の事が西洋にも言える。キリスト教は、キリストを知らない東洋人をその射程に含んでいない。キリストを知らなかった人は地獄に落ちたのか。
今は、インターネットもあり、あらゆる考えをある程度の早い段階で知る事が出来るが、昔はそうではない。神がいるとして、その神の名が問題だと言うのならば、何故神は全ての人にただちに自分の(真の)名を知らせなかったのか。
もっと平たく言うとこういう事だ。
神が子供に信じるか信じないかを平等に説いて、選択出来るのならば選ばなかった責任を問う事が出来るだろう。
しかし、そうではないなら説明されないルールで遡及されて裁かれる事になり、全くフェアではない。三歳児の所に、聖書が自動的に配られる訳ではない。
もっと言えば、神の代わりに仏を入れても同じ事が言える。昔はインターネットなんてものはないし仕方がないが、神の名や、唱える言葉を問題にするのならば、全員は全く救われない。今でもイスラム圏では、アラーを信じないと殺される場合がある。改宗は許されない。神は公平で善であると言う。ならば何故、世界中にチャンスを与えないのか。神を仏に置き換えても同じだ。
だから最近は、無神論者が増えている。それは、皆が遵守すべき普遍的道徳があるにせよ、局所的にしか知られない宗教が支配するのはおかしいと、皆が(上に書いたような思弁を通して)思うからだろう。
又、哲学では普遍的道徳や世界に通底する絶対的ルールも疑われている。普遍道徳を信じるグループと、信じない、認めないグループがある。
何が正しくて、何が間違っているのか。
法律は昔、法源(法の根拠)に神を必要とした。しかし、神が虚構ならば、それは同語反復に過ぎない。今は自然法を根拠とする。人間には普遍的な共通感覚というものがあるのか?それともないのか。
どのようにすれば客観的な立場に近付けるのか。この古くて新しい問題は、今でも議論されている。
ともかくとして、ある一定地域でしか知られないルールを知らない罪で他人を裁くのならば「それこそが神の教えに反しているのではないか?」という反論が可能だろう。だから、私は宗教全般に疑いの目を向けている。
※続編を書きました。