スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

宗教の良いと思う所

以前に、こんな記事を書いたけれども宗教に良い部分がないかと言うとそうではない。

宗教には良い所もある。

gomiblog.hateblo.jp

 

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例えば、宗教は悪い事をせずに、良い事をするべきだと教える。これは間違っていないだろう。何が悪くて何が良いかは部分的に異なるが、殺すな、盗むな、嘘をつくな、騙すな、いやらしい事をするなとかは大体にして正しいと思う。ユダヤ、キリスト、イスラム教ならば十戒等の戒律を重要視するだろうし、仏教にも五戒、八正道、四正諦という似た教えがある。

こういうのは今の法律にも影響を与えているだろう。かつては神が法律の根拠だった事もある。今は自然法と言って、神が根拠ではなくなっているが、法源について考えてみるとなかなかに興味深い。

何が普遍的なもので、何がそうでないのか。哲学では様々な主張がなされる。

ともすると哲学は相対主義に陥りやすい。相対主義には良い面と悪い面がある。

例えば、法律の解釈が多元化してしまったら?法律を人が好き勝手に解釈したらどうなるだろう。混乱するだろう。だから、哲学者の祖と言われるソクラテスは倫理的観点から相対主義者であるプロタゴラスを批判した。「人間は万物の尺度である」という言葉は有名だが、人間が価値を決定するのだという主張には傲慢な所があるかも知れない。人は物の値段を付ける。しかし、人が物の性質を決定している訳ではない。

逆に、現代に近づくにつれて「物事を絶対的な観点から俯瞰する神」の存在が疑われ出して、人は間違える事を踏まえて相対主義が隆盛してきた。認識論的には相対主義は正しくて、人間は同じ様で違う世界を見ている。例えば、視力が良い人と、視力が悪い人は同じ世界に生きていても、見え方が異なる。色覚異常とか四色色覚と言って、見える色が少なかったり、多かったりする人もいる。こういうのはユクスキュルの環世界論という主張に詳しく書かれている。客観がないかどうかは別として(神の様な視座で物事を見る事を客観と呼ぶならば確かにそれは不可能だろうけれども)確かに私達は相対的な存在者であって、ローマ法王だろうが天皇だろうが、これからは逃れられない。誰もが自分の視野の範囲で見える物だけを見ている。

殆どの学者は、普遍的なものと相対的なものの均衡とか両立とかを考えていると言って良いだろう。もしも、全てが相対的だったら誰かが正しいとか間違っているとか言えなくなる。相手を相対化するのに、自分の主張は絶対に正しいと言うのはおかしいのだ。逆に、人間は全知全能の神にはなれないし、ならなくて良い。だから、絶対主義にも問題がある。微妙にニュアンスが異なるが、全体主義という言葉もある。これも人間は避けるべきものである。

 

キリスト教を例に取って考えてみると、キリスト教は神を前提する。

しかし、人間は神ではない。

キリストは神であり、イエスという人であると言うけれども多くの人はそれを信じられないと思うだろう。人間と神が同時に在るとはどういう精神状態なのだろうか。まあ、神だから人間には理解出来ないのだろうけれども。

神を前提する。神に従う。聖書を神の言葉だと考える。神は間違えない。聖書は絶対に正しい。そして、人は神ではないのに、自分は神を理解していると思い上がる。

ここにキリスト教の問題があると思うし、それを私は以前書いた。

他の宗教もそうなのだが、教祖が神だというのはもの凄く問題があると思う。

人間は神ではないので間違える。間違えるから絶対視すると危険である。

キリスト教的にはキリストは例外なのだろうが、多くの人間が自分がキリストを信じているという事を通して、己や所属団体の見解を絶対視してきた。

その結果、異民族を虐殺したり他宗教を迫害したりしてきた。

…どうも悪い部分ばかり書いてしまうので、良い部分を書きたい。

だが、良く読むと聖書には「敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」と書いてある。

ならば、異民族や他宗教の人間も愛するべきではないだろうか。

なるほど、悪い人を愛する事は難しいかも知れない。しかし、相手を悪いと決めつけて最初から敵視していれば、皆、敵に回るのではないだろうか。

 

こういう部分の聖書解釈が人によって異なるのである。そして、自分の、あるいは自分の所属する組織の解釈だけが完全に正しいと思うから問題が起こる。

普通、科学ならば物事を検証して、つまりは実験や論理的な整合性を調べて、正しいか正しくないかを確かめる。尤も、実験が難しい分野(社会科学や人文学)もあるが。

…しかし、宗教は信仰するので厄介だ。信仰は物事が正しいか正しくないか確証する前に、信じる事が可能である。だから人間は間違った事を信じる。聖書にも神を信じている様で偶像を信じている人達がいるのだが、まさにこれである。

ただ、もしも、キリスト教が、敵をも愛する宗教であり、他の民族や宗教に対して寛容であるのであれば、基本的には良い宗教だと私は思う。(キリスト教の教義…例えば偶像崇拝の禁止とかがある以上、他の宗教と一緒に仏像に祈るとかは出来ないと思うが)

悪い事をしない。誠実に生き、嘘をつかない。(何でも秘密を喋る訳ではなく)人に親切にする。人を助ける。こういうのは別に誰も否定しないだろうと思う。

 

あなたが友達を求めるとして、どんな友人が欲しいだろうか。

親切で、悪い事をせず、嘘をついて自分を騙す様な事はしない。裏切らない友人が良いだろう。キリスト教は、そういう意味では完全に正しいと思う。

隣人を愛する事は間違っていないと思う。

全ての人の幸せを願う事も良い事だと思う。