スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

姥捨て山 老人の介護問題について考える

姥捨て山という民話をご存じだろうか。

又、楢山節考という知る人ぞ知る小説もある。

いずれも棄老伝説を題材に取った物語である。

棄老とは、老人を捨てて人口を減らす事であり、目的は口減らしである。

ただ、日本では老人よりも子供を間引く傾向があったらしい。この辺は定かではない。

恐らく、両方があったのではないかと思われる。飢饉等で食料が確保出来ない時「手に余る存在」を捨てる事で、共同体は維持されたのである。

 

姥捨て山という物語には幾つかの類型が存在する。

その一つは「難題型」と言われるもので、アニメ等にもなっていて、広く知られている。

あらすじを要約すると、こんな感じだ。

 

ある国の殿様が、年老いて働けなくなった者は役に立たないから山に捨てよというお触れを出す。

ある家でも、そのお触れに逆らえず、息子は泣く泣く老親を山に捨てようとするが、結局捨てることが出来ず、密かに家の床下にかくまって世話をする。

このエピソードに「枝折り型」という類型の話が加わって、「姥捨て山」に捨てようとしたのだが「老親が息子が山で迷わない様に」と道々の枝を折っていたのに気付き、再び道を引き返して家に連れ帰ってくるというエピソードが加わる場合もある。

しばらくの後、殿様が隣の国から幾つかの難題を持ちかけられて脅されるが、息子はそれらの難題を老親の知恵によって解いてみせる。隣の国はこのような知恵者がいる国を攻めるのは危険だと考え、攻め込むのを諦める。その後、息子が褒賞を受け取る段になって、老親の存在を知らせる。老人の知恵のおかげで国を救われたことを知った殿様は、老人を役に立たないものと見なす間違った考えを改め、息子と老親に褒美を与えると共に、お触れを撤回し、その後は老人を大切にするようになった。※参考・Wikipedia

 

こういう物語である。今の日本の現状にもこれに近いものがある。

 

gomiblog.hateblo.jp

 

経済学者の成田悠輔氏の、集団自決発言に端を発し、世の中では老人をどうやって遇するべきかという議論が再燃している。高齢者達は皆、老人を殺せなんてけしからんと怒っている。そういう人達は政治的なリベラル派の人物が多い様に思う。又、若者は高齢者への医療や福祉の負担増から来る増税に懸念を示し、若者の負担増を憂う。

あるいは、その両方を俯瞰して世代間対立を深める様な過激発言は良くないと諫める者もいる。

 

この問題の解決策ははっきり言って存在しない。

日本は少子高齢化を解決出来ない。何度か私は主張しているが、今から子供が増えた所で、労働人口の一時的減少は回避出来ない。機械化や移民政策を使って何とか乗り切るとしても、事は簡単ではないし、少子高齢化、人口の減少は続くのである。

要するに現状墜落しそうな訳だが、軟着陸(ソフトランディング)する為に、様々な施策を総合的に用いていくしかない。

 

ポイントは機械化と健康だと思う。

一つはコンピューターやロボットを用いた仕事の効率化によって、労働人口の現象に対処すべきだろうと言える。しかし、この分野で高齢者が寄与する部分はそう多くない。一部の専門家を除いて、殆どの老人は社会の急速な機械化についていけていない。私も、高齢者ではないが、プログラミングの知識等、専門家の足下にも及ばないのである。姥捨て山の民話では、老親が素晴らしい知恵を用いて、国家の危機に対応したが現代日本では、老人の知恵はそんなに価値を持っていない。これは悲しい事だが、事実である。

もう一つは、健康寿命の延長である。高齢者が出来るだけ元気でいてくれれば介護負担は減らないまでも、極端な増大は抑えられるという事だ。しかし、こちらも個人差があるだろうし、全ての人が元気でピンピンしていてある日急にコロリと死ぬ(昔の言葉で言うとピンピンコロリという死に方)という事が出来る訳ではないので、人々に健康を義務付けると、健康でない人をいじめるような傾向が出てきて問題になるのではないか。その懸念を既にこの文章で書いた。(若干冗長であるけれども)

 

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恐らく、両方とも頭の良い人は気付いていて、既に様々な方向から進めていると思う。きっとあなたの会社でも、機械化による効率化が進んでいるだろう。又、健康意識も以前に比べれば向上したであろう。

発展のスピードが急速な少子高齢化傾向に追い付いていないのが現状である。

 

私達は高齢者に尊敬の念を持つべきだ。彼らは頑張って、社会を支えてきた。姥捨て山の物語の教訓から学ぶ事が出来る様に高齢者に集団自決を迫り、安楽死させる様な事があってはならない。しかし、現実の状況が厳しいのは事実で、人々の意識は何らかの形で変わっていくだろうし、変えなければならない部分があるのも事実だろう。

私は安楽死制度には反対だ。安楽死制度が合法化されると、人々は「不要」と見なした人間に安楽死を促す事によって、間接的に殺人を行う様になるのではないかという懸念からだ。良くキリスト教をはじめとする宗教では自殺を禁じているが、その背景にはそういう考慮もあるように思う。宗教関係なく、危険性を踏まえて慎重になるべきだ。

 

私の願いは、皆がこの文章を読んでくれ、出来るだけ物事を俯瞰して捉える事によって世代間の無用な対立、断絶を防ぐ事である。私は今まで、どちらかと言えば成田氏(発言内容は擁護出来ないが)の様な若者の立場からの発言を肯定的に捉える主張をしてきた。しかし、もうそういう段階は終わっている様に思う。若者が不満を過激な言葉でぶつけても、現にそうなっている様に、成田氏のような人物が干されて終わりである。高齢者の集団である社会において、若者一人の声(成田氏は若者ではないが)は大海に対する一滴の水の様なもので無力である。出来るだけ、老人には現状を理解して貰い、まさに「将来世代につけを残さないように」考え、行動して貰える様な話をしていくしかない。

 

楢山節考や民話「姥捨て山」から再び、私達全員が学ぶべき時が来ているのかも知れない。姥捨て山の老人は若者を大切に思い、自らを犠牲にしてまで守ろうとした。しかし、今の高齢者にその精神はあるのだろうか。逆に、若者達も、この様な民話が既に存在し、教訓とされている事を知るべきであろうと。