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特殊な環境でない限り、自分を全面的に肯定してくれる人はどこにもいないと私は思います。
それこそ宗教の崇拝対象である神にでも求めない限りは。
神だとしても、神が神であるからこそ(崇拝に足る神は善である筈だから)あなたに何か間違っている点があればそれを指摘するだろうと思います。指摘せざるを得ないでしょう。
神が自分をどうして完全に作らなかったのか?と運命を呪っても事態は何も改善しないですね。自分には良い点と欠点がある事を受け入れるしかないです。欠点は何も全てが「悪」という訳でもないです。人間には得意不得意があってそれは仕方ない事ですから。
それよりも根深いのは、人間が自分は他人を全肯定しないのに、自分は全肯定して貰いたいと思う事ではないでしょうか。自分は全肯定して貰えて当然と思う所にこそ、罪深さがあると思います。
不条理とか理不尽にあなたは怒るでしょうか。社会は歪んでいると思うでしょうか。
私も社会は問題だらけだと思っているし、不条理とか理不尽はあると思っています。
しかし、こう考えてみて欲しいのです。あなたも、そして私も社会を構成する一要素ですね。その自分は歪んでいないのだろうかと。そして、自分が他人に対して理不尽な怒り方をしたり、不条理な振る舞いをした事が一切ないだろうかと自省してみて欲しいのです。
殆どの人は胸に手を当ててじっくり考える…までもなく、自分は誰かを傷付けた事があると思い出すと思います。しかし、中には自分には落ち度は全然無いとか、自分はいつも被害者で、そもそも自分は悪くない、自分は常に正しいと言う様な人がいるのではないかと思います。極希ですが。こういう人は重症だと思います。
自分が嫌がる事を他人にするなと良く言われますね。しかし「自分を全肯定してもらいたいとか、自分を全肯定して貰えるのは当然だ」という人は、他人を全肯定しているのでしょうか。
あなたはそこら辺の良く知らない人を全肯定してあげたいと思うでしょうか?
思わないのであれば、あなたは他人に理不尽を要求しているのです。
これが社会の歪みです。社会の歪みとは、構造的な問題、制度的な問題もありますが、社会の成員である私達一人一人が生み出しているものなのだと私は考えています。
社会は(理想に対して)悪いでしょうか?私は悪いと思います。
しかし、それを言ってばかりでは始まらないです。
スクラップ置き場の様な世界でも、それなりに使える物を見繕ってやっていくしかないのだと思っています。それが生きるという事です。説教臭くなってしまいましたが、これが分かってない人が結構いると思います。
私も若い頃は全然分かっていなかったと思います。
私は今でも人間があんまり好きではないです。動物の方が好きです。
しかし、今では人間を好きになる努力をしています。少しずつ無理のない範囲ですが、良い所を積極的に見つけようとしています。
社会を恨むという人がいたりします。確かに、社会には良くない点があり、改善が必要な場合もありますね。
しかし、自分自身にも改善が必要な場合があります。そして、社会を漠然と恨んでも、社会の側はあなたを顧みてはくれないのではないでしょうか。
あなたは、あなたを何だか良く分からない理由で恨んでいる良く知らない人に申し訳ないと思うでしょうか?社会を恨む事は、人間には良くある事ですが、恨んでも時間の無駄だし意味がないと思います。
社会は「人間の集合」であり、責任者はいません。
総理大臣?それとも天皇?天皇は政治参加しないし、総理大臣はコロコロ変わってしまいます。民意というものには決まった形がありません。
社会に対する恨みはテロになるかも知れないですね。しかし、テロはある一定の少数の人間を殺害するだけで、社会の問題は改善しないと思います。それは社会問題は我々一人一人の中にこそ存在しているからだと思います。
社会問題は、病巣を取り除けば解決するという生やさしいものではないと思います。むしろ我々こそが病巣なのではないでしょうか。
一番早いのは、自分が変わる事だと思います。社会を変える事は不可能ではないですが、難しいですね。それよりも、自分が変わった方が手っ取り早いです。それに人を変える為には、自分も変化する必要があると私は思っています。
身近な一人の人すら変えられないのに、社会を変えられる訳がないと思います。その身近な人とは自分自身です。
悪い習慣があるなら、止めた方が良いだろうと思います。しかし、悪習慣、悪癖というのはなかなか染みついていて直らないものです。社会の問題の根深さはこういう点にこそあると思っています。
2022年、元首相である安倍晋三氏が殺害されました。実行犯の男性は社会を恨んでいたと思います。正確には統一教会と自民党をですが、まあ、社会全体をも恨んでいただろうと思います。それを改善する力を持たない市民も、彼は愛していなかったと思います。彼の人生は確かに壮絶で、辛い出来事の連続だったと思います。苦しい事があれば、社会を恨む事もあるだろうし、怒りや悲しみで心を病む事もあるだろうと思います。しかし、テロは何も解決しないと私は思っています。
共産主義とその歴史を見てみれば分かります。彼らは社会を暴力で転覆する事を主張しました。そして市民によって独裁政治を行うと主張しました。(マルクス=レーニン主義の事です。こうした思想を背景にしてスターリンは銀行強盗をして政府を転覆し、独裁を行いました)貴族的な者たちを締め出して正しい政治をするというのです。その結果が気に入らない人間(対立者)を粛正し、戦争を起こす国です。共産テロリズムは何も解決出来ないので論外だと思っています。共産主義に限らず、極端な右派も含めて、対立者を暴力で排除しようとする思想全般にこういう危険性が含まれていると私は思っています。
ではどうすれば良いのでしょうか。どこかの歌ではないですが「この腐敗した世界に落とされて」我々は絶対の神を見いだす事も出来ないとしたら、どこに彷徨っていくのでしょうか。
私はこう思います。もし、どんなに辛い事があっても自分を暖めてくれ、自分が守るべき、小さな日だまりのような幸せがあれば私達は前を向いて生きていけると。
この世界がどんなに腐りきっていたとしても、小さな花が健気に咲いていれば、それを守ろうと思わないでしょうか。
頑張っている幼い子供がいるでしょう。
何とか人に迷惑をかけない様にしようと模範を示そうとする老人がいるかも知れません。
働く大人達、子供を育てる親がいます。
皆、様々に間違え迷いながらも頑張って生きています。
そういう世界を滅ぼしたいと思うでしょうか。
私は一人でもそういう人がいるのならば、その世界は存続すべきだと思います。むしろ、そうして、今までこの世界は続いてきたのではないかと思います。
自分を全肯定してくれる人がこの地上のどこにもいなくても、私達は「小さな日だまり」を守る事で、守ろうとする事で守られて生きていける。私はそう信じています。
あなたにもきっと守るべき小さな日だまりがある筈です。
たとえ本当に小さくても。