スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

自分を全肯定してくれる人はどこにもいないという事と小さな日だまりの話

少し、きつい事を書いているのでもしそういう内容を読みたくない人は、ここでブラウザバックして下さい。

 

特殊な環境でない限り、自分を全面的に肯定してくれる人はどこにもいない。

それこそ宗教の崇拝対象である神にでも求めない限りは。

いや、神だとしても、神が神であるからこそ(崇拝に足る神は善である筈だから)あなたに何か間違っている点があればそれを指摘するだろう。指摘せざるを得ない。

神が自分をどうして完全に作らなかったのか?と運命を呪っても事態は何も改善しない。自分には良い点と欠点がある事を受け入れるしかない。欠点は何も全てが「悪」という訳でもない。人間には得意不得意があってそれは仕方ない事だ。

それよりも根深いのは、人間が自分は他人を全肯定しない癖に、自分は全肯定して貰いたいと思う事だ。自分は全肯定して貰えて当然と思う所にこそ、罪深さがある。

 

不条理とか理不尽にあなたは怒るだろうか。社会は歪んでいると思うだろうか。

私も社会は問題だらけだと思っているし、不条理とか理不尽はあると思っている。

しかし、こう考えてみて欲しい。あなたも、そして私も社会を構成する一要素である。自分は歪んでいないだろうかと。そして、自分が他人に対して理不尽な怒り方をしたり、不条理な振る舞いをした事が一切ないだろうかと自省してみて欲しいのだ。

殆どの人は胸に手を当ててじっくり考える…までもなく、自分は誰かを傷付けた事があると思い出すだろう。しかし、中には自分には落ち度は全然無いとか、自分はいつも被害者で、そもそも自分は悪くない、自分は常に正しいと言う様な人がいる。極希だが確かにいる。こういう人は重症である。

 

自分が嫌がる事を他人にするなと良く言われる。しかし、自分を全肯定してもらいたいとか、自分を全肯定して貰えるのは当然だという人は、他人を全肯定しているのか。あなたはそこら辺の良く知らない人を全肯定してあげたいと思うか?思わないのであれば、あなたは他人に理不尽を要求しているのだ。これが社会の歪みである。社会の歪みとは、構造的な問題、制度的な問題もあるが、社会の成員である私達一人一人が生み出しているものなのだ。

 

社会は悪いか?私は悪いと思う。しかし、それを言ってばかりでは始まらない。スクラップ置き場の様な世界でも、それなりに使える物を見繕ってやっていくしかないのだ。それが生きるという事だ。説教臭くなってしまったが、これが分かってない人が結構いる。私も若い頃は全然分かっていなかったと思う。私は今でも人間があんまり好きではない。動物の方が好きだ。しかし、今では人間を好きになる努力をしている。少しずつ無理のない範囲でだが、良い所を積極的に見つけようとしている。

 

社会を恨むという事がある。確かに、社会には良くない点があり、改善が必要な場合もある。しかし、自分にも改善が必要な場合がある。そして、社会を漠然と恨んでも、社会の側はあなたを顧みてはくれないのだ。あなたは、あなたを何だか良く分からない理由で恨んでいる良く知らない人に申し訳ないと思うだろうか?社会を恨む事は、人間には良くある事だが、恨んでも時間の無駄だし意味がない。

社会は「人間の集団」であり、責任者はいない。総理大臣?それとも天皇天皇は政治参加しないし、総理大臣はコロコロ変わる。社会に対する恨みはテロになるかも知れない。しかし、テロはある一定の少数の人間を殺害するだけで、社会の問題は改善しない。それは社会問題は我々一人一人の中にこそ存在しているからだ。病巣を取り除けば解決するという生やさしいものではない。むしろ我々こそが病巣なのである。

一番早いのは、自分が変わる事である。社会を変える事は不可能ではないが、難しい。それよりも、自分が変わった方が手っ取り早い。それに人を変える為には、自分も変化する必要がある。身近な一人の人すら変えられないのに、社会を変えられる訳がないのだ。その身近な人とはあなたである。

悪い習慣があるなら、止めた方が良いだろう。しかし、悪習慣、悪癖というのはなかなか染みついていて直らないものだ。社会の問題の根深さはこういう点にこそある。

 

少し前、元首相である安倍晋三氏が殺害された。山上容疑者は社会を恨んでいた。正確には統一教会自民党をだが、まあ、社会全体をも恨んでいただろう。それを改善する力を持たない市民も、彼は愛していなかったと思う。山上容疑者の人生は確かに壮絶で、辛い出来事の連続だったと思う。苦しい事があれば、社会を恨む事もあるだろうし、怒りや悲しみで心を病む事もあるだろう。しかし、テロは何も解決しない。

共産主義とその歴史を見てみれば分かる。彼らは社会を暴力で転覆する事を主張する。そして市民によって独裁政治を行うという。貴族的な者たちを締め出して正しい政治をするという。その結果が気に入らない人間を粛正し、戦争を起こす国である。共産テロリズムは何も解決出来ないので論外である。

 

ではどうすれば良いのか。この腐敗した世界に落とされて我々は絶対の神を見いだす事も出来ないとしたら、どこに彷徨っていくのだろうか。

 

私はこう思う。もし、どんなに辛い事があっても自分を暖めてくれ、自分が守るべき、小さな日だまりのような幸せがあれば私達は前を向いて生きていけると。この世界がどんなに腐りきっていても、小さな花が健気に咲いていれば、それを守ろうと思わないだろうか。頑張っている幼い子供がいる。何とか人に迷惑をかけない様にしようと模範を示そうとする老人がいる。働く大人達、子供を育てる親がいる。皆、様々に間違え迷いながらも頑張って生きている。そういう世界を滅ぼしたいと思うだろうか。いや思わない。私は一人でもそういう人がいるのならば、その世界は存続すべきだと思う。むしろ、そうして、今までこの世界は続いてきたのではないかと思う。

 

自分を全肯定してくれる人がこの地上のどこにもいなくても、私達は「小さな日だまり」を守る事で、守ろうとする事で守られて生きていける。私はそう信じている。