スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

悪口と批判 共感と常識

ツイッターである人物が、悪口は良くないという事と批判は良くないという事を同列に語っていた。また、その人物は正しさを振りかざす事を批判しつつ、他人に「常識」を求めるような人間より、共感を(恐らくこれは、そんなの常識だろとか言わずに相手の考えに寄り添うべきだという事だろう)大事にした方が良いと述べていた。

 

元々のツイートは引用しない。そして、この言及も若干詳細はぼかしている。私はその人を批判したい訳ではないからだ。特定されないように、取り扱いたい情報だけを抜き出した。

 

私はそのツイートを見て、反射的にこう思った。

悪口と批判は同列ではないのでは?そして、この人が述べている事も、誰かに対する批判なのではないか?と。

又、常識という言葉は、かつてコモンセンスと言われた概念の日本語の訳語で、元は共通感覚という非常に共感に近い言葉だったのだと。

 

平たく言うとこうである。

誰かに何か物申す。この事自体にネガティブな意味はない。間違っている事を指摘する。これは時には必要な事ですらある。しかし、中には批判と悪口、誹謗中傷を区別出来ない人間がいる。これは加害側にも被害側にもいる。

そうなると、特に人格否定を含まないような、論に対する批判も悪口だと捉えられてしまったりする。そういう人は、人に批判するなとか、批判は悪い事だとか言う。しかし、その批判するべきではないという姿勢自体が批判である。政治が悪かった時、誰も批判出来なかったらどうなるか?会社がブラック企業だった時、声を上げられなくてそのまま従わなければならなかったらどうなるか。

 

批判は必要だ。批判や注意や指摘と悪口、毀誉褒貶、誹謗中傷を区別しなければいけない。一般的に、後者は馬鹿とか阿呆とか言うような罵倒を含む場合が多く、問題になる行動や論より、人格に対する攻撃が多い傾向にある。ただ、誰かを批判する場合、人格と論を切り分けて批判するのは非常に難しいので、完全な区別は出来ないかも知れない。

それとは全く別に、私は批評家然とした人間にはなりたくないと思っていて、職業的な批評家が分野によっては必要だとしても、人を批判する事が目的化してしまったら駄目だと思っている。有名な批評家である小林秀雄は批評は人を褒める事だと述べた。褒める事も評価であり批評なのである。

 

次に常識と共感についてだが、私の手元にある共通感覚論という本に依れば、センススコムヌス、つまりコモンセンスを誰かが常識と訳したのが、常識という言葉が日本で使われるようになった始まりなのである。大体明治時代に広まった言い方だそうである。

常識には上位概念に良識があるという説もあるが、常識は人が知っているべき知識というよりも、人が共通して感覚出来るものという意味合いが強かったようだ。

 

そうなると常識がない人間というのは、物を知らない人間というよりも、人に寄り添わず共感しない人間だという言い方も出来るかも知れない。尤も、コモンセンスは人によって使い方が違う哲学用語なので、厳密な事を書くと非常に膨大な記述が必要になってしまうが。

興味深いのは、元は共通感覚等と呼ばれていたコモンセンスが、知らない事が恥である知識を意味する常識という言葉に置き換わってしまっている事である。

 

正しさというのも、人に振りかざすようなものではなくて、ただ静かにそこに存在するものであるというイメージを私は持つ。例えば、物理法則は誰かがどう考えようが、それはそれである。そういうものを誰かに振りかざす事は出来ない。ただ、それに反すれば理にかなっていないが為に、酷い目に遭うだけだ。そもそも正しいとか正しくないという事は人間の価値観で左右されるかのように思われているが、本当にそうなのだろうか。確かに社会の風潮は移ろう。だが、社会がどんなに拗くれても重力が反転したりはしない。人がどう考えようが、それはそれ、どうしようもない、という事にこそ真実や正しさがあるような気がする。

 

誰かに寄り添っても、その人物が間違っていればむしろ事態は悪化する。

状況によっては、その人物が間違っている事を指摘するこそこそが、思いやりである場合もあると私は思う。