私は、書きたい事が思いついたら「はてなブログ」の下書きにメモしている。
タイトルを適当に付けて、ある程度、書くべき事を箇条書きにしておく。
数日後にそこから書く事を見つけて記事にする事もあれば、全然別の内容を書く事もある。ともかくとして、そんな風にやっている内にストックが膨大になっている。当分は書く事がなくならないので、もし、書く事が見つからないという人は試して欲しい。暮らしの中の些細な事でも良いので、ちょっとでも気付いた事、疑問に思った事があったらメモするのだ。
人(少なくとも私)は生きていると様々な事を思い付く。しかし、書き留めておかないと忘れてしまうのだろう。メモする癖をつけてから、世の中にはかくも多くの疑問があったのだと気付いた。
もし私がブログを書かなかったならば、気付かなかったであろう事がこんなにも膨大にあったのである。私が無知なのもあるが、世界は謎だらけだ。きっとあなたもそうだろうと思う。
メモを持ち歩いて、何か気付いた事があったら記録を取っておいた方が良い。後々、図書館やネットを利用してそれを調べると思わぬ発見があったりする。
きっと学ぶという事も始めはこんな風だったのだろうと思う。
学問は大体にして、物事を観察する事から始まる。数学とかの概念操作は別かも知れないが、殆どの学問は実在する調査対象を持っている。
仏教では物事の真相を良く見分ける事が強調される。
諦めるという言葉は、今ではネガティブに使われていて「諦めたらそこで試合終了ですよ」等と言われたりするが、諦めるは「明らめる」からの変化で、物事の真相を見極めて知り尽くすという意味があるとされる。知り尽くせば可能性は無くなるので、諦める必要があるという訳だ。
何かを良く知るには推測するだけではなくて、観察が欠かせない。観察が無ければ、仮説も当てずっぽうになってしまうのである。
毎日の変化をメモに取る、疑問を書き留めておくという事は、観察記録に当たる。
この観察記録、格好良く言うとデータを参考にして仮説を作って、仮説を検証して、人に認められて始めて(理)論になっていくのである。
物事は論の通りにはいかないし、思い通りにはならないものだが、論を作る事で傾向が見えてくる場合もある。
例えば、最初、人間社会には暦が無かっただろう。地図も無かっただろう。これらは観察から得られたデータであり、論である。暦がある事によって農耕の計画を立てる事が可能になった。異常気象もあり得るが、大体の目安が分かる様になった。地図が出来て、人々は迷いにくくなった。こういうのは、(当時は科学と言う言葉がなく哲学と一体だったり、宗教との境目が無かったのだが)今の言葉で言えば科学の発展である。
科学の発展によって社会は改善されていく(他の理由もあるが)と言える。
毎日の暮らしの中で、様々な観察データを記録し、それを元に仮説を立てて検証する事で暮らしは改善されていくのである。
ゲームの攻略も同じで、やっていくと壁にぶつかる。その壁が敵だったり謎だったりするが、どちらにせよ、解決策を色々と探る。記録して見返し、相手に合わせて方法を変える。これも立派な(スケールは小さいが)科学的手法である。
こういう事が自然に行える人と、行えない人がいる。
暮らしの中で、日々、観察、反省し、間違いを繰り返さない人は成長していく。
それに対して、学ばず、同じ事を繰り返す人は困窮していく。観察記録、仮説検証のプロセスは貧困とも関わりがあると私は思う。
宗教には弊害があると私は思う。宗教は信仰を持つ事で思考停止する傾向にある。
そして事実の観察よりも理想や経典を重要視して現実から乖離していくのである。
信仰を持って(信仰の定義にもよるが)心が落ち着くという人もいるだろうし、それ自体は否定しないが、考える事は重要である。疑い過ぎたり、考えが止められない人には精神安定の効果があるかも知れないが、宗教を全面に押し出して、物事を見なくなるのは本当に危険だし良くない事だと思う。
哲学が宗教から分離し、科学が哲学から区別される様になったのも、この辺に理由があるのかも知れない。
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以前、思考の整理学という本を読んだ。この本には賛同出来る部分も、全然実感と違うなという部分もあったのだが、ともかくとして読んだ。
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その中に、考えを寝かせておくという事が書かれていた様に記憶している。
考えを記録して寝かせておくと、ある時、別の経験を通して「熟成」した考えが生まれてくるというものだったと思う。正確ではないかも知れないが。
ともかく、こういう「熟成」とか「発酵」というのは人間の発見で、人間が文字を使ったり、言葉を用いたりして記録、記憶するからこその事なのだ。
動物も「言語に似た鳴き声」をもってやり取りしていたりするが、文字を使う動物はいないし、科学的には言語を持っているとは考えられていない。
聖書的な、霊長としての人間と動物をはっきり区別する考え方を横に置いておいたとしても、言語というのはそれだけ特異なものだと言える。
人間の社会の発展は言語に拠る所が大きいと言える。言語をやり取りする事で、人は擬似的に体験を共有する事が出来る様になった。歴史的教訓から学ぶ様になり、失敗を繰り返さない様に学習してきたのだ。
だから人は良く、本を読めとか言うのだろう。言語を上手く操れないと、それだけ生活が難しい高度情報化社会を私達は生きているのだ。
それはそれとして、書きたい事、調べたい事、確かめたい事を記録に残しておくのは非常におすすめである。娯楽にもなるし、自分の暮らしを良くするきっかけになるかも知れない。