スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

可謬主義とは

可謬主義とは、哲学的な考え方の一つである。創始したのは、プラグマティズムのパースやデューイであるとされる。後には科学哲学のポパーやその弟子や、影響を受けた学者が唱えた。

この可謬主義を、短く言い表すと「知識についてのあらゆる主張は原理的には誤り得る」という事だ。平たく言うと「人間は確実だと思っても、間違える事があり得る」という表現が近いかと思う。

これだけだと、何のこっちゃとか、当たり前だろうと言う反応が起こるかも知れない。

可謬主義は、基礎づけ主義という考え方を批判する時に用いられる。

それまでの哲学は、基礎づけ主義という考え方が主流だった。

 

代表格はデカルトやロックである。

彼らは、揺るぎない信念を基礎として、その周辺、あるいは上に知識の体系を築こうとする。デカルトは「我思う故に我在り」が有名だが、要するにこれ以上疑い得ないであろうものを基礎にする。ロックは経験を基礎にする。ちなみにデカルトは神を信じており、彼の哲学には神が現れる。大雑把に言うと神が「これ以上疑い得ない我」を基礎づける。

 

他にも様々なバリエーションがあるが、近代までの哲学は基礎を求めた。考えてみて欲しい。基礎は大切だ。基礎がきちんとしていなければ、建物は崩れる。砂上の楼閣という言葉もあるが、絶対確実な基礎の上に建てなければ、災害で崩れる可能性があるのが建造物だ。知識もそうで、基礎があやふやならば、知識もあやふやになる。

 

こうして、昔の人々は揺るぎない知識の基礎に神を求めたり、経験を据えたりした。

余談だが、英語で基礎の事をコーナーストーンと言う。実はキリストと呼ばれるナザレのイエスは大工であり、神を基礎に喩え、自分の教えの中で自分自信をコーナーストーンと呼んだ。

 

間違っている基礎の上に幾ら一生懸命に建てても崩れる可能性がある。では、確実な基礎は何か?これが哲学の問題だった。現代でも科学の基礎について論じられる事がある。

 

しかし、近代になってこれは様変わりしてきた。人が神を信じなくなったのもその理由の一つだが、そもそも、人は神ではないので、神を基礎にするという考えは謎である。キリスト教の神は全知全能だが、人間は全知全能ではない。疑って疑って、疑い尽くしても、そこにはちっぽけな自分が残されるだけで、神はいない。

また、経験を基礎に据える場合も人間の経験は人それぞれ様々だ。(もちろん哲学者はもっと複雑な事を考えている)人それぞれ経験が違うのならば、どういう経験を基礎に据えるべきなのだろうか。

 

こう考えてみると、そもそも人間が間違えないように確実な基礎を据えようという考え方が間違っているのではないか?という問いが浮かんでくる。

 

基礎づけ主義にも可謬主義にも様々なバリエーションがある。また、それぞれの哲学者が微に入り細にわたって説明している。しかし、その全てをここで紹介する事は出来ない。また、私の勉強不足により細かい部分には異同があるかも知れない。それはご容赦いただきたい。

ともかくとして、人間は理性によって確実な基礎を得る事が出来ないのではないか?という考えが強くなってきたのである。その極みが懐疑主義だ。懐疑主義は確実なものなど何もないのではないか?と述べる。確かに、これは一理ある。しかし、全ての知識が疑わしいとなると、これは非常に都合が悪い。そこで持ち出されるのが可謬主義である。

 

可謬主義は、知識の全てを手放す訳ではい。しかし、確実性に関しては疑いを持つ。この考えは確率論に近いかも知れない。ある方法論がある場合にはうまく使えても、別の時にはうまく使えないかも知れない。可謬主義はケースバイケースを認める。状況は変わるからである。

また、人間は全知全能の神ではないので、ある程度の間違いを許容する。

 

人は、間違えても良い。完璧主義は結局、人の批評ばかりして自分では何も生み出す事がない。完璧主義とは、完璧とは程遠い考えである。逆に言えば、可謬主義とは、暫定的なやり方を用いて、トライアンドエラーを繰り返して改善していくやり方だ。

 

何を当たり前の事を、とか、こんな小難しい事が何の役に立つのか?と思っただろうか。卑近な事を言えば、ブログアフィリエイトにも可謬主義は役に立つと思う。

 

ブログを書く人は、こんな風に考えたりする。書いたブログが自動的に富を生み出してくれないだろうか、と。

しかし、可謬主義の立場から言えば、知識は絶対ではないかも知れないという事になる。普遍的な知識体系(どこでも通じる知識の集まり)を求めるかも知れないが、それは暫定的なものに過ぎないかも知れない。

 

すると、手を入れないで放置でお金が稼げるという考えは通用しない事になる。なあんだ、とがっかりしただろうか?

しかし、良く考えてみて欲しい。リライトすれば良いのである。

始めに暫定的なものだと断りを入れて書いておき、少しずつ改善、改良すれば良い。

紙の本の方がブログより信頼性が高く、良いという人も多いが、紙の本では簡単にリライトする事は出来ない。リライトして改良し続けられる事はブログの強みだ。

 

そして、リライトは無から作るのに比べ容易だ。知識は財産になる。こうして、可謬主義的な考えは実際に適用出来る事が分かった。それもその筈、可謬主義を最初に唱え始めたのは、実用主義(この訳語にも様々な異論はあるが)と訳されるプラグマティズムの学者達なのだから。