【注意】読者を意識して書いてますが、半分日記なので、この文章には落ちらしき落ちはありません。
眠れないというのは辛い。
不眠は精神病の前段階だと言うお医者さんもいる。
眠れなくなったら、何かおかしいと思った方が良い。不眠は、体の限界だというサインなのである。
だから眠れなくなったら、まずは心と体を休めた方が良い。
ストレスが不眠の原因である可能性は高い。しかし、仕事が忙しかったりして、また、その仕事を辞めることが出来なかったりして、休む事が困難な場合もあるだろう。
例えば私は今そういう状況に置かれている。そうなってくると、薬を飲んだりしてなんとか眠ろうとする。
もちろん、薬に頼る前に様々な事はやっている。朝起きて日光浴び、運動をしたり 夜寝る前に、カフェインを取らないとか。 また、スマートフォンなどを見過ぎないとか気をつけてはいる。
しかし、それでも眠れない時は眠れない。仕事で忙しくてやる事が多い時、やる事を減らそうとするのは難しい。仕事は自分で選べない。自分に降りかかってきたものをなんとか解決していかなければならない。
もちろん自分で仕事を増やさないようにすることは、とても重要である。だが大抵の場合、仕事というのは自分が欲しい時にはままならない。それなのに、自分がやりたくないと思っている時には降りかかってくるものではないだろうか。
どうすれば 私達はこの悪循環から逃れる事ができるのだろうか。一つには、普段余裕がある時に忙しくなった場合の対策を練っておくことである。
もう一つには忙しい時にできるだけ本当に必要なことだけをするように、優先順位をつける事だろう。要するに今やらなくていい仕事を、先延ばしにするのである。
こういう事について、おそらく皆さんはすでに考えた事があるだろう。
だから目新しい内容ではない。私もこれ以上のことを思いつかないので、今、目の前の問題に 苦しみ、また、不眠になっている。
ストレスの最大の原因は、人間関係であると言われている。人の悩みのおよそ9割は人間関係によると言う。
そうなると、先ず人間がストレスを減らす為にやるべき事は、人間関係による摩擦を減らすことである。
一つに、あまりにもいつも問題を発生させるようないわゆるトラブルメーカーから距離を取る事である。
もう一つには、自分自身がまさにトラブルを起こさない事である。
そして最後に、人との関係を良好に保つ為に、自分の行動を見直す事である。心理学や、哲学や、あるいは宗教において、こういう事は昔から語られている。
そういう文献を読んで、自分自身に向き合ってみることも恐らく必要だろう。尤も、そうしたとしてもストレスが減らない場合もある。
人のせいにするなとか周りのせいにするなとか人は言うけれども。
確かに自分自身がストレスを感じやすいとか自分自身がストレスを発生させているとか言う事もあり得るけれども。
善良な人でもひどい目にあう事はある。それは現実をよく見ていれば解る。
だから どんなに頑張っても、ストレスが全てなくなるということはない。
意外にも 仕事を長く続けることができる人は、繊細で人に気を使う人ではなく、むしろ、鈍感であまり考えない人であるという事はあるのではないだろうか。
どこかで人は鈍感である事を選ぶ必要がある。
例えば、今、コロナ禍で様々な人がストレスを抱えている。
ある人は、コロナウイルスを恐れ、ある人はワクチンを恐れ、またある人はマスクをすることに不快感を抱いている。
そして様々な考えが対立して、そこでもまた、ストレスが生まれている。
人々の間には思想的な溝ができる。断絶と呼ばれるものだ。また、ソーシャルディスタンスの為に人と人との関係にも距離ができる。とても繊細な人はきっと、こういう状況を詳しく分析しているうちに心を病んでしまう。
だからどこかで適当になる必要があるかも知れない。
自粛も大切だけれども、ずっと家に引きこもっていたら鬱になってしまうという事も 言えなくはない。
だからどこかで許容できるリスクを許容する必要がある。
要するに少しの摩擦、痛み、危険に対して 鈍感になるという事だ。
鈍感になるという事に抵抗を感じる人も多いと思う。非倫理的であるからとか。
しかし、人は、ある程度社会を知るにつけ自分から世界に対する感受性をコントロールする術を身につける必要があるのである。無感覚になれというのではない。必要なのは、使い分けである。
ちょっと難しい言葉で言うと、これがレジリエンス、要するに心の柔軟性である。
この心の柔軟性がない人程、病気になりやすい。きっと私もそういう部分があるのだろう。あまりにもまっすぐに問題に向き合ってしまうと、そこに待っているのは解決ではなくて硬直である。そして、停滞である。
そういう時には、問題に対するアプローチを変えてみる必要があるだろう。
視点を変えてみて、やり方を変えてみる。工夫してみる。少し時間をおいてみる。あるいはまったく別の方法を考えるというように。そんな風に、様々な方法を考えている内に問題の方が一人でに解決する場合もある。悪い方、悪い方に考えすぎるのも良くない。もちろん、何でも楽観視すればいいというものでもないが。
あるべき心の在り方というのは 本当に難しい。ともあれ時間は流れていく。自分が歳をとりたくないと思っても時間は無情である。そしてその時間が問題を解決してくれる場合もある。良い事も悪い事も時間が押し流していく。
できるだけ、限られた時間の中でより良い人生を送ろうとして人は悩み、もがき、苦しむ。けれども、貪欲に求めれば求めるほど幸せが遠ざかってしまうということもあるかも知れない。
そんな時 道端の小さな花に目を留める余裕を持つ事。
これは一つの例えだが、そんな心のゆとりが必要なのかも知れない。良く言われる事だが、社会というのは無慈悲なもので、あなたという歯車がひとつ欠けたとしても、また、新しいやり方を見つけて動いていくものなのだ。だから、自分が欠けてはならない存在なのだと思いたいあまりに自分を犠牲にする事はないのではないか。
ある著名人が言っていた事だが、とても有能なビジネスマンが死んだ後も、ある大企業は成長をし続けているという。
だから、そんなレベルの人ですら代わりがいるのだから、あなたも休んでいいのだと。
確かにそうかも知れない。
骨が折れてからそれを元通りに直すのは難しい。大怪我をする前にやめておいた方が良い。同じ事が精神にも言える。心が壊れてしまう前にどこかで立ち止まり、また引き返す必要がある。
きっと私の場合それが今なのだろう。もう少し頑張りたかったが仕方がない。何度かやめようとして、その度に引き止められ頑張ったけれども、なかなかままならなかった。
ただ自分なりにできた事もある。
一応は次の人達にバトンを渡す事はできたのではないか。
そんなふうに考えながら、この文章を書き上げた。心の区切りを付けたかったからだ。
ここまで 読んで下さり、どうもありがとうございました。