スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

頭でっかち

時間が比較的ある時に、興味があったのでこの本を購入した。今はやや古びて過去の物となってきているがフランス現代思想哲学書である。(と言っても、フーコーは1984年まで存命だったのだが)

 

内容はとても難しく、専門用語が飛び交うので読むのに非常に骨が折れる。

さらっとどんな内容が書いてあるのかをまとめると、こういう感じだ。

 

フーコーはテクノロジーの進歩と共に監視社会が到来する事を予言した。

それは見事に当たった。例えば、中国では人々の信用が格付けされ、町中にビデオカメラが溢れかえり、人々は生活の隅々まで監視されている。問題行動を起こせば、格付けが下がって信用ポイントが低下し、暮らすのが困難になるという具合だ。

(但し、運用には様々な穴があるようで日本人が想像するような、それこそジョージ・オーウェルの小説「1984年」のような世界ではないらしい)

日本でもインターネットで個人情報を流せばあっという間に特定されるようになった。

 

社会は巨大な一望監視施設、監獄「パノプティコン」のようなものだという。(パノプティコンは有名な功利主義者であるベンサムの考案した監獄の名前だ)

フーコー社会権力が個人をどのようにコントロールするかを様々な側面から考察してきた。フーコーの思想においては絶対的な真理というものは否定される。それは権力が作り出した幻想に過ぎない。

 

そして、この「後期フーコー」という本ではパノプティコンの議論を出発点として、権力が人々の内面をどのように変えるのかを考察している。「主体」という言葉がテーマになる。平たく言うとこんな感じだろうか。

 

例えば、近代において良く引き合いに出される独裁的な悪の権力者と言えばアドルフ・ヒトラーが挙げられる。従来、人々はヒトラーが如何に凶悪な人間であるかを考察してきた。(従来の反権力の学問の系譜の喩え)それに対して、フーコーヒトラーが選挙で選ばれたのは何故なのかとか、ヒトラーの命令に実直に従って大勢のユダヤ人を虐殺したアイヒマンのような小役人はどうして生まれたのかというベクトルで物を考えていると言えば良いのだろうか。

日本で言えば、一昔前、良く安倍晋三元首相が悪の親玉であると言われていたりした。けれども、本当はその人々を熱狂的に支持するネトウヨこそが首相を支える「権力」を作り出していた。フーコーの視点はそういうものである。

個人的には安倍晋三氏を支持しても全然問題ないと思うが、ネトウヨと言われるような人々がしばしば、全く間違った歴史認識に基づいて物事を判断する事には大きな問題があったのではないかと思っている。

こういうのは単純に言えばポピュリズム衆愚政治)の問題だ。ポピュリズムが独裁者を生み出し、独裁者が権力に基づく規律によって人々を内面から変えていく過程で、監視社会が生まれるのである。

 

※私のフーコー読解は全然間違っているかも知れないので、この要約はあんまり当てにしないで欲しい。

 

とは言え、私も大衆の一人であり、私の判断も間違えるかも知れない。良く衆愚政治を批判するのにオルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」が引用されるが、オルテガは何もエリートによるテクノクラート独裁を望んでいた訳ではないらしい。そういう定義をしていない。むしろ、オルテガは専門家も専門分野を一歩出れば皆「大衆性」を持っていると考えていたのではないかと言われている。

そうなると、独裁政による監視社会…そこまで厳密なものではなくても…空気、同調圧力によって言いたい事が言えなくなるような窮屈な社会は私達一人一人が作り出している事になる。だからこそ、フーコーは一人一人が哲学的思弁を通して「主体」の問題に取り組み、変わっていかなければいけないと考えたのではないかと私は思う。

 

こんな風に私はフーコーを読んだが、何しろ複雑な概念や耳慣れない言い回しが多用されていて読みづらい。これはフーコーと協力関係にあったジル・ドゥルーズにも言えるのだが、彼らの思想はとにかく分かりにくい。

 

そういう分かりづらさは「ファッショナブル・ナンセンス」として批判されてもいる。

「知の欺瞞」ではフーコーは直接批判されていないけれども、フランス現代思想、ポストモダニストと分類された哲学者は知識をひけらかし、地に足がついていない頭でっかちであると言われている。科学用語を本来の文脈から離れた意味で乱用したと言うのだ。

 

そうした議論もあってか、後期フーコーは知という事についてこういう意味の事を言っている。知識とは、単に頭で文字を知っているとか聞いた事があり、記憶しているというのではなくて、実際に実践を通して繰り返し体で覚えたものであるべきだと。要するに知識には身体的感覚が必要で、反復して使えるものにしていかないといけないと言うのだ。私もその通りだと思う。

 

休日に頑張って、積んでいたこの本を読んだが、それなりに収穫があったように思う。

恐らく、私のブログの読者も私がときどき耳慣れない専門用語を使うので、頭でっかちの鼻持ちならない奴と思ったかも知れない。気をつけてはいるが、平易な言葉で表現するのはなかなか難しい。

 

gomiblog.hateblo.jp

 

フーコーは57歳で亡くなったが、きっと多くの人が彼の問題意識を踏まえてこれからも物事を考え続けていくのだろう。この本を読んでこれからも出来るだけ、多くの人に分かって貰える様に努力を続けていこうと思った。出来る事ならば、分かりにくい難しい論を、平たく噛み砕いて、市井の人々が「実際に使える」体に染みこんだ知識に変えられる様な橋渡し役になれれば良いなと思う。