スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

裏切られない為には

あなたは人に裏切られた事はあるだろうか?

 

そもそも裏切りとは何だろう。辞書で調べてみた。裏切りとは約束や同盟関係、契約を反故にする事、又は、期待通りにいかない事象について用いられる語だと言う。

 

確かに、約束や同盟、契約を捨てるのは良くない事だ。

しかし、考えてみるに、私達は自分の期待通りにいった試しがあるだろうか。大体の場合、思い通りにはいかなくて修正を迫られる事の方が多いのではないだろうか。

いつも、比較的上手くいっている、という人も何もかも見通している訳ではないだろう。思い通りにいかない事もある筈だ。例えば、コロナウイルス騒ぎがこんな風に後引くなんて誰が想像しただろう。ロシアがウクライナに攻め込むなんて想像出来ただろうか。

 

良く考えてみれば、私達はいつも裏切られてばかりである。そして次第に人は、何もかもを疑い始め、期待しなくなる。

 

裏切られない為には、最初から期待しなければ良いのだ。信頼しなければ、裏切られる事もない。しかし、これはあまりにもニヒリスティック(虚無主義的)過ぎる。

 

適度に疑う事と、適度に他人に信頼を置く事を両立させる事。これが、裏切られないコツだと私は思っている。

 

例えば私は人を信頼しても信仰はしない。

 

以前、可謬主義について書いたが「人は常に間違える可能性がある」ので、人の言う事を絶対視しない。何かしら根拠がある事も反証される可能性がある。もちろん根拠はないよりある方が良いが、全ての主張がある意味では仮説である。人は仮説の束であり、その中で出来るだけ蓋然性が高く、出来事に合致している解釈を探していくしかない。

 

人間は全知全能ではないので、神のように全てを俯瞰する事は出来ないし、他人の心の内は推測は出来ても、分からない。人を信頼するのは大切だが、人を絶対視して信仰しているとしたら、それは間違いの元である。

 

当たり前だが、全てを疑うのも全てを信じるのも間違いで、適度に疑い、適度に人を信頼しながら、適時問題を解決する為に検証し、確かめていく作業が必要なのだ。

前に、リテラシーと言う文章でも書いたが、人の言っている事を鵜呑みにしない方が良い。当たり前だが、ブログに書いてある事は確かめてから用いた方が良い。私の主張も疑い、そして確かめてから利用して欲しい。

 

人によって置かれている状況は異なる。前提が違い、条件が違う。だからある人の主張が嘘ではなくても、別の人には当てはまらない事もある。9人に効く薬が、10人目には効かない場合もある。真に科学的な立場に立つのならば、先入観を廃して、前提が違えば結果も変わる事を受け入れる筈だ。

それとは別に、10人目に効かない薬を、9人に用いる事は間違いではない。

例えば、コロナウイルスのワクチンは、私は効果があると考えているが、中には副反応があるから使わない方が良いとか、打つと死ぬとか言い出す人がいる。こう言うのが極論で8、9割に効くなら使えば良いだけで、打てない人は打たなければ良いだけだ。全員に打つべきで打てない人はいない筈だというのも決めつけだし、打つべきではなく、全員打つなというのも決めつけなのである。人間は皆同じではなく、置かれた環境や遺伝によって個人差があるからだ。

 

裏切られた!と連呼する人は、人に過大に期待しているか、誰も信じていない故に、誰からも相手にされていないのではないだろうか。裏切られた時、本当に自省的な人は他人の裏切りを責める前に、自分が人や信義を裏切ってこなかったか考えるだろう。裏切られてばかりの人は、人を裏切ってばかりだったのかも知れない。(真逆の事を言うようだが、悪い事をしていなくても裏切られる可能性ももちろんある。この世界は、正しい事をしたら辛い目に遭わない訳ではないからだ)

 

公正世界仮説というものがある。

因果応報にも似ているが、正しい事をした者は報われ、悪い事をしたものは苦しむという仮説、思い込みの事である。

基本的に人間は正しい事をしたから報われ、悪い事をしたから罰を受けるとは限らない。

具体例は書かないが、不正をしながら、生涯、その悪事が露見せずに裁かれなかった人もいる。(死後に発覚した)

 

多くの人は、善い人が報われ、悪い人は罰を受けて欲しいと考える。

だが、世の中の価値基準は移ろう。ある時代、ある地域では善とされた事が、別の場所では悪とされる可能性もある。

善い人が酷い目に遭う事もある。事故や事件に巻き込まれる可能性がある。

 

私は悪い事をした方が良いと言っている訳ではない。悪人より善良な人の方が良いが、善くなろうとしても人間は間違える事があるし、苦しい目に遭う事があると言っているのだ。仏教でも「因果応報」の他に「一切皆苦」(あらゆる事は苦しみを含んでいる)と教えていた筈だ。

正しく生きれば、苦しい目には遭わないというのはあまりにも幼稚な世界観だ。

 

例えば、病気になった人や、事件や事故に巻き込まれた人に対し、何か悪い事をしたからではないかと勘ぐったり、いじめられた人に、いじめられる側にも原因があると主張したり(原因があってもいじめて良い訳ではない。あまりにも横暴で皆から嫌われているとかなら別だが。)

 

自分をコントロール出来ていると感じている人は、幸福度が高いと言う。

だが、この世界は、人生は、ままならない。

上手くいく事もなくはないが、大抵は期待通りにいかない。端から期待しないのは大切かも知れない。だが、本当に大切な事は、何が実現可能で、何が不可能で過大な期待なのかを検証していく事ではないかと私は考える。それが学ぶという事ではないか。その学びは一生続く。