スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

分かりやすさの大切さと弊害

昨日、文章を書いてある人に見せたら、込み入っていてなじみの無い言葉が出てきて分かりにくいと言われた。普段、そんなに考えて生きていないとも言われた。

私なりに、そんなに難しい表現をしたとは思わなかったのだが、そういう感想を貰ったという事は私の説明不足だったのだろう。

 

文章を書く際にも、誰かに何か物事を話す際にも分かりやすさは大切だ。

出来るだけ誰にでも分かるように書かなければならない。

それと同時に、誰にでも分かる様に書く事の非効率や不可能性をも思う。

 

結局、誰に向けて書いているのか?が重要なのだ。

例えば、あなたがエンジニアで、誰かに自分の書いているコードの事を伝えたいという時、相手が同僚だったら幼児に話すようには話さないだろう。ある程度の前提知識を共有しているという認識で、専門用語も使って話す筈だ。

それに比べて顧客に対して話す時はどうだろう。もっと噛み砕いて話すだろう。

本当に子供に対して説明する場合はどうだろう。例えば、子供にプログラミングを教えるのならば?子供にも色々いて、プログラミングが得意な人、そうでない人、全然、学んだ事のない人と色々いる筈だ。個々の理解の進度に合わせた説明が必要だ。

 

だから、誰にでも分かるように説明すると、逆にまどろっこしいとか、時間が掛かるという事が発生する。

又、最近になって、分かりやすさを重視する弊害を語る本が幾らか出版されるようになった。人によっては、分かりやすさばかりを重視する事に警鐘を鳴らしている。

 

何故だろうか?それは世に蔓延っている所謂「分かりやすい」説明が、実際には理解の助けになっていないからである。

 

例えば、物理学の相対性理論の説明として「熱いストーブの上に手を置くと、1分が1時間に感じられる。でもきれいな女の子と座っていると、1時間が1分に感じられる。それが相対性です」というアインシュタインの言葉を引用している人がいる。

ご存じの通り、相対性理論を提唱したのはアインシュタインだ。しかし、アインシュタインがこの言葉を語ったのは、あくまでジョークとしてだと思われる。それというのも、この説明は「主観的感覚の相対性」の説明ではあっても、本当の意味での物理学で語られる相対性理論が示す時間の伸縮とは異なるものだからである。

 

アインシュタイン相対性理論で語った事は、実際に実験で確かめられている。主観的に時間の感覚が異なるという次元の話ではなくて、実際に実証実験によって確かめられている。原子時計を高速で飛ぶロケットや航空機に載せた時、時計の進みが僅かに遅れる事が確認されている。こういう厳密な実験についてここで列挙する事はしないが、高価で大規模な実験器具によって様々な角度から検証されているれっきとした物理現象の話なのだ。

 

アインシュタインの「相対性の比喩」は、「物理学の相対性理論」の分かりやすい説明ではなく、全然異なる事象の説明であって、それを本当の理解だと思ってしまうというのは単純に誤解である。

こういうのは世の中に蔓延している。本当は理解していないのに、YouTuberの「分かりやすい」説明を聞いて、学者よりも詳しいと思ってしまうような事が。

統計がろくに読めていないのに、ちょっとしたブログや飛ばし記事のグラフらしきものを読んで自分が専門家の主張を覆せると思っている人は大勢いる。

 

専門家が間違える事もあり得るし、ケアレスミスもあり得るが、様々に検証された公式の発表の場合、それは通常、素人の生半可な知識によって簡単に覆されるようなものではない。

 

ブログを書く際には、出来るだけ多くの人にリーチする必要がある。

だから、出来るだけ最大公約数を増やすような記事を書く訳だ。

誰でも分かる記事を書いた方が、読まれる数が多くなり、アフィリエイトをしていれば広告をクリックされる機会が増えるだろうからだ。

だが、出典を明記していない個人ブログを何かの根拠に据えるのはあまりよろしくないと言える。そこには嘘とまで言わなくても大きな誤解が含まれている可能性が高いからである。

 

分かりやすさは大切だ。

確かに、難しい言葉を多用する人の話し方は鼻につく。所謂スノッブという奴だ。

哲学をやっている人にありがちだが、専門用語を多用して分からないと馬鹿にする人間は存外多い。しかも、そういう人は教授とか権威ではなくて、中途半端な理解の素人である場合が多い。哲学について語り合う哲学カフェに行くと、専門用語を多用しない事や、どうしても使わざるを得ない時には、子供にも分かるように説明する事が求められる。参加者は一般人だからである。一般人は哲学を修めた訳ではないので、哲学界隈だけで通用する用語を知らないのが普通だからだ。

 

そもそも哲学とは何なのか?定義は様々にある。一定の定義はないらしい。

ただ、哲学はある程度、多くの人に影響を与えないと意味がないだろうと思われる。

ある人の人生哲学というものがあっても全く語られないとしたら、それは知られない。逆に、語られず、その人の行為を通してのみ知られる考え方というものであるとしたらそれは非常に哲学的に思えるが、殆どの哲学は哲学書によって語られるものである。

当然、語られるものは読まれなければ意味がないので、哲学こそ分かりやすくなければならない。これは宗教とかも一緒だ。宗教の概念を知らないと馬鹿にする信者がいたりするが、そういうのも宗教から人を遠ざけているのである。

 

哲学は万学の祖と言われたりする。これには色々な見解があると思うけれども、それを仮定して話を進めたい。

当然、全ての学問は誰かと共有され、人々の間で使われなければ意味が無いのである。だから、分かりやすさは非常に重要だ。

それに対立しているのは一体何か?それは正確性、あるいは精確性である。細かい事柄についての精度や確度、正確度が求められる時、表現は一気に込み入ったものになる。

現代の哲学は、分野によるが一般に科学の前提とか、科学では取り扱えない事柄を厳密な次元で考えるような学問である。そうなると、日常生活では使わない言葉を使う事になるし、普通の人が拘らないような細かい事にも注意して考える事になり、複雑な概念を表す専門用語が飛び交う事になる。

あらゆる学問が…哲学が学問の前提を取り扱うとしたら…この哲学の問題を孕んでいる。話が学究的になればなる程、理解出来る人間は減る。それは、その事柄に実際に取っ組み合っている、直面して試行錯誤し考えている人が減るからだ。

 

分かりやすくて正確な文章を書きたいと常に願っているし、そう気をつけているつもりだが、いつの間にか分かりにくくなってしまっている事もあると思う。この文章もすでに大分込み入っている。

分かりやすさと、正確性。この兼ね合いを常に意識してこれからも文章を書いていきたいと思う。

最後に。

誰にでも間違いはあるにせよ、人を騙す虚偽を書かないようにだけは気をつけたい。

人を楽しませるフィクションを除き、本当の事を伝えない文章には価値がない様に思うから。