アンケートを採って、四つの候補の中で一番獲得票が多かったので、この記事を書きます。
今、ものすごく考えている事があります。四六時中考えていて、夜も眠れないという事はないですが、気になっていてかなりの集中力をその問題に割いている現状があります。
結論から言うと、それは「正しさについて」の問題です。もっと具体的に言うと、正しさとは何なのかという事です。
もしも、この問題について何か良い知恵や答えを持っているのであれば、是非、私に教えて欲しいです。
ある程度、教育を受けた人であれば、何か物事を調べる時には先行研究を調べると思います。ネットで検索する他、文献を調べて既にその問題に答えが出ていないかを考えると思います。
少なくとも私の調べた範囲では、この問題について明確な答えは出ていないです。
正しさの類似概念に正義があります。正義は何なのかを問う学問は哲学です。
又、ある種の学問や技術を扱う分野において「正しさ」とは答えが正しいという論理的つながりを指す言葉です。1+1の答えは、基本的には2です。これは「論理的に正しく」前提が共有されているのであれば、皆が認めると思います。
私が疑問視している「正しさ」という概念は、こうした、ある限定した条件下で正しいか否か確認するものではなく、もっと上位の抽象概念です。
例えば、法律を取り決めて運用した場合、法律を破った人間は「悪」という事になります。ここにも幾らかの留保があると思いますが、便宜的にそう考えて下さい。
この場合、法律を守る事が正義となりますね。しかし、法律そのものが正しいか否かを判定する場合はどうでしょう。法律が人を計る物差しになる場合、法律を破れば間違っている事になりますが、法律が正しいかどうかを判定する場合は、物差しとなるものが存在しません。基準と言っても良いですが、その価値判断をするのは人間になります。
それは現実の社会では民意であったり、政治家の合意であったりします。
普通、何かを制定する場合、法律の基礎となる概念があり、それを参照して法律を決めます。例えば、憲法というのは上位概念です。しかし、憲法が正しいかどうかを判定する場合はどうでしょう。憲法の上位概念として、国際法とか人権というものがあると言えるかも知れません。しかし、それを定義する場合は、その上の概念がない場合があります。上位概念が下位概念を規定する場合、法律を整備するという事は前例に倣って、法律の間の均衡を取る為の作業になります。しかし、それ以上に上位の概念がない場合、それは哲学の問題になります。これが(もし間違っていたら申し訳ないです)私の認識では法学と法哲学の違いではないかと思います。
究極の上位概念として全能の神というものが挙げられます。神とは何ぞやという問題を扱う学問に神学が存在します。しかし、神学に関しては今は、ある種の宗教の中での正当性を云々するものでしかないので、実際の政治や現実の問題に対して適用できるものではないという所まで縮退していると思っています。
何故、そんな風になっているかと言うと、神の存在証明ができないからです。神の存在証明は幾つかの類型に分類できるのですが、その全てに何らかの問題があります。
これと正しさの存在を云々する事は非常に似ています。
正しさについて様々に言及している学者がいます。しかし、それが世界全体で合意されている訳ではないというのが私の認識です。むしろ、世界全体で、何が正しいのかという事については合意できるどころか分裂しています。
数学を例に取って考えてみましょう。数学は論理学と近い学問だと言われたりします。数と論理は厳密には別のものですが、論理操作に基づくという点で共通項があるのだと認識しています。
数学の最も根本にある基礎とは何でしょう。数学基礎論とか、論理学の基礎を云々する学問というものが存在します。数理論理学とかもそうですね。私はこの分野に詳しくないのでふわっとした説明になってしまいますが、大昔は、哲学者や神学者は論理学者を兼ねていたりしました。
数学には定理というものがあります。定理は、証明の結果、正しいと認められます。定理を構成する定理というものがあり、定理は上位構造が下位構造を規定しています。これは法律の構造に似ています。むしろ、法律の方が論理を必要とする為に数学を模しているのかも知れません。では、定理を規定する上位の存在とは何でしょう。公理です。公理とは、最も基本的な仮定の事です。これも仮定です。公理は一つではなく複数あります。どの公理を採用するかで、その数学の構造が決まります。これを公理系と言います。公理を証明する事は、基本的にはできません。無限後背が起こってしまうのを避ける為に、公理は最も基本的な存在であると定義されます。公理は自明に正しいものだと見なされます。しかし、どの公理を採用して数学体系を組むかは恣意的な判断が含まれます。説明に自信がなくなって来ましたが、何となくニュアンスは掴めるかと思います。
数学や数学を前提とする学問全般は論理に支えられています。「論理は正しい」と人は思いがちです。しかし、論理的に一貫している悪人というものも十分に考えられるのではないでしょうか。論理は全ての分野における「正しさ」を担保してくれる究極概念ではないと思われます。
ここで神を召喚したくなりますが、人間は全能の存在ではない事は明らかなので、これは除外されます。神の存在証明もできていません。存在証明には何らかの問題があると見なされており、神から常に正しい答えを得られる交信法などと言うものは今までに見つかっていません。言わなくても分かると思いますが、そういうのは全てオカルト、詐術、錯覚と言えます。と言うのも、それが科学的検証に耐えられないからです。
論理は、何かが正しいと確認する際の一つの基準、つまり公理にはなりますが、公理そのものの正当性を判断する材料にはならないのです。
トロッコ問題というものがあります。トロッコ問題では、レールの切り替えレバーを動かし5人を助けるか、見ないふりをして1人を犠牲にするかが問われます。数字で見れば、5人を助けた方が良いと思われますが、この5人の属性は不明です。又、1人の属性も不明です。そういう前提は共有されていないのですが、要するに功利主義的に5人を助ける為に1人を犠牲にする事は倫理的に正しいかを問うている問題なのです。これに似た形式の問題は複数考える事ができます。
例えば、正しい医者がいたとして、その医者は「正しい判断」において患者にある治療をすると決めます。その治療は患者に真実を告げるものです。しかし、患者は真実に耐えられないので、それを聞いて自殺してしまいました。この場合、患者に真実を告げる事は間違っていたのかという事例が考えられます。
「人を殺傷する事は正しくない事」と広く認識されていますから、その観点から見れば真実を告げるべきではないと言う事になりますね。しかし、その真実は患者が誰かを傷つける事を防止する観点から告知する必要があったとしたらどうでしょう。これはある種の妄想を抱えた精神病患者に対して、認知行動療法が適当かどうか判断する際のジレンマとして現実に存在するのではないでしょうか。
トロッコ問題も自動運転のプログラムを組む際に、現実問題として人間の前に出現します。
これらのジレンマが解決困難なのは問題が循環構造をしているからです。普通の場合、こういう問題を解決する時には、場合分けが採用されます。単純な循環構造は矛盾なので、それを防ぐ為に問題に、複数次元の階層構造を導入する為の価値基準を前提して、自分の判断を正当化するのです。
分かりやすく言うと、トロッコ問題では、トロッコに轢かれる可能性のある1人より5人の方が量的価値があるという前提を導入して自分を正当化します。これは功利主義的判断です。
他にも、5人を犠牲にして助かる1人が社会的偉人であるとか言うパターンもあり得ますね。これは医師がトリアージをする際にも問題になってきそうです。実際、そのような倫理的な葛藤を題材にした文学作品は存在しますね。パッと思いつくのだと、漫画になってしまいますが、浦沢直樹氏のMonsterという漫画があります。
では、こういう功利主義的判断に問題はないのでしょうか?
功利主義は、こういう問題を招来します。もしも、その偉大な人物や、あるいは数的優位にある人物の代わりに犠牲になる人間が、あなた自身であった場合、あるいはあなたの大切な人であった場合はどうでしょう。これはジレンマです。功利主義に対立する概念として全ての人に平等に認められる筈の「人権」や、個人的な愛情などの価値判断があり得ます。
社会の為に犠牲は付き物だとか、科学の発展の為には犠牲が必要だと言った場合に、あたかもそれが崇高で正しいかのような感覚に陥って、その結論を採用してしまいそうになりますが、もしも個人的な価値判断を採用しているのであれば、その犠牲が自分自身や家族である場合は十分考えられるので、個人的快楽に基づく功利主義と、社会全体を益する功利主義の間で、コンフリクトが起きます。対立しジレンマが発生します。
他にもこれに類する問題は膨大に考えられますが、文章が長くなるので割愛します。
現実にこれに類する問題は広く発生していると思います。例えば、何らかの疾病を予防するワクチンに関してもそうですね。ワクチンが絶対安全ではない場合、ワクチンの接種を義務化すると公衆の防疫と、個人の健康や安全がコンフリクトしてしまいます。こういう類いの何かが、疑似科学がなくならない問題と関連するのではないかと私は思っています。
更に、こういう問題もあります。ある種の正当性を確かめる方法として科学が挙げられます。しかし、狭義の科学、自然科学においては正当性を求める方法として実証実験が採用されます。もしも、実証実験が何らかの理由でできない場合や、そもそも不可能な場合はどうすれば良いでしょう。自然科学の基礎を論じる学問に科学哲学が存在します。科学哲学では、何が科学の条件なのかを考察したりしますが、簡単な基準で科学と非科学を分類する方法はありません。反証主義には複数の問題があり、上述した公理の選択に恣意性が混入してしまうというような問題が考えられるので、何が正しいかを判定する際には、条件を限定して「視野を絞る」必要があります。
例えば、実在について科学で扱おうとすると、実は客観的実在は疑わしく、今では反実在論が優勢になっていますね。ヒュームという哲学者は自然の斉一性や因果を疑っています。ある実験が100回成立して再現されても、101回目に再現する保証はないし、時間空間を超越してその実験が再現されるという保証もないという言明は残念ですが、正しそうです。
もっと平たく言えば、科学で正否を判定できる分野は限定されてしまうという事です。
観測、仮説、検証のプロセスが科学だと言われたりしますね。しかし、観測に限界があったり、観測時の不具合が発生するセンサーの問題があり得ます。仮説はあくまでも仮説ですから、何が正しいか事前には分かりません。検証するというのは、主に実証実験で条件を変えて再現するかどうかを判断する訳ですが、前述した通り実験する事ができる対象の限界があります。
実は、科学の範疇の外側に現実の世界が広がっていて、科学は万能どころか、その正確性を発揮する為には、科学の条件、いわば視野を縮小しなければいけません。科学は全体を俯瞰する事ができる学問ではないです。(じゃあ上位互換の代替手段があるのかと言われると、それがないので困っている訳ですが)科学で正否判定ができる事柄の外側に、論理の問題があり、その論理的一貫性で正否判定する事ができる問題の更に外側に、価値の問題があります。この価値の問題や信念の問題に決着をつける方法は、実は存在しないのではないかと私は考えていて、これを政治とか戦争による暴力とかで、実質的にねじ伏せてきたのが歴史なのではないかと私は思うのです。
学術的な正義とか、正当性を導出できないので、結局は実際の物質的威力で人間を従わせたものが正義という発想をする人はまあまあいますよね。
一番やっかいなのは、この価値の問題や信念の問題です。論理的に話をしても、相手が全く異なる信念体系、価値体系を「公理として採用していると」人は分かり合えません。どんな公理を採用するべきか、を判定する更に上位の概念がない限り…これを私は便宜的に失われた神と呼んでいますが…人は、この種の問題に悩まされ続けると私は考えています。(誤解のないように言っておきますが、だから宗教を導入して、人が人間の作った神に従うべきだ等と言いたいのではありません。また、何々の神は人間の作った神ではなく、本当の神だという言明も、何の証明も伴わない限り空疎であると言っておきたいと思います)
銀河鉄道の夜という宮沢賢治の作品で、うろ覚えですが確かこんなやりとりの場面があったと思います。
「本当の神様だよ」
「違うよ。本当の本当の神様だよ」
そう言って、人は分かり合えないという事をずっと繰り返してきたのでしょうか……。