議論学という学問があるのはご存じですか?
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議論学で有名な学者スティーブン・トゥールミンによれば、議論には語られない暗黙の前提が隠されている事が多く、それがすれ違いを生むのだそうです。
この文章でも書きましたが、人が揉めるのは、大体の場合、言っている事が論理的ではないからとか、主張に根拠があるかないかとかではなく、その前提とする信念、思想の基盤が異なるせいです。
例えば、こんな話が考えられますね。
神様Aを信じている人と、神様Bを信じている人が神様について話をしています。
彼らは神の存在については認め合い、お互いに神を信じていると思いました。
しかし、話を進めていく内に、お互いの信じている存在への姿勢や習慣が異なる事が分かり、すれ違い、信じている神が異なる事に気付き始めます。
最終的にどちらの神の方が正当かという議論の段になって、結局、話はまとまらなくなりました。
神の存在はお互いに認めていても、その神が如何に客観的に存在するかという論証が欠けているので、自明と見なしている事に議論が及ぶと、相手と食い違いが生じてしまいます。
また、その前提は「公理」つまり、証明を経た内容でないので、どの前提を自明と認めるかは個人の主観的判断によります。
神の部分を全く別のもっと身近な概念に置き換えても似た事が言えると思います。
自分の好きな音楽グループとかでも成り立つと思います。ある音楽グループAと別のグループBはどちらが上か?とかですね。
この場合、何を持って上なのかが明確ではないと議論にはなりません。例えば、売り上げなら明確に優劣がつきますが、反論として売り上げだけが音楽の価値ではないとか言われる事も十分に考えられます。それに次いで、そのグループの音楽に傾ける情熱とか、芸術性とか、潜在的才能とかの目に見えない抽象的な内容に話が及ぶと訳が分からない結果になります。
宗教や芸術の他にも政治や思想においても似た状況は生まれると思います。
結局は、こういうのは議論になりません。何故なら、個人的な嗜好や自我のぶつけ合いになるからです。
神は存在しないと考える人は、神の存在を主張する人にこそ証明する義務があると思っています。それに対して、神の存在を信じる人達は、信じる事で十分であり、神の存在を証明する必要はなく、それは自明の前提だと考えています。
このように全く異なる前提を持っていると、議論にはならないのです。
議論の条件としては、同じ前提を共有していなければならず、どちらかが相手に未知の情報を伝えられなければならないと私は考えています。そうしなければ、議論には何の進展もなく、発展もありません。議論が有効なのは、こういう条件の下なのであって、闇雲に議論しても何も生まれません。
身近なケースについても考えてみましょう。
自分の勤めている会社や通っている学校ではどうでしょうか。
会社でも会議をするのが好きな人達がいますね。でも、会議に持ち寄った情報が代わり映えのしない内容であれば、ただ、お互いの持っている情報を確認し合うだけで、何も生まれません。会議で何か新しいものを生み出したいのであれば、そういう前提条件についてよくよく考えなければいけないと思います。
真っ暗な部屋に閉じ込められた人を想像して下さい。彼が喩え、IQ180の天才だとしても、生まれた時から何も教えてもらえず、何も見る事ができなかったらどうでしょう。彼に発明は難しいでしょう。科学の理論を知る事もできないでしょう。
科学的発見には「観察」という要素が欠かせないと私は思います。何か現象をよく観察する事から発見が生まれると思っています。その上で、その現象の背景となるメカニズムを考えたり、あるいは発見した物理現象を生かして応用し「科学技術」に昇華するのです。
議論をする前に、自分の「手持ち札」つまり持っている情報を良く確認する必要があります。良くTwitterでレスバトル(ネット上の言い合いの事です)している人がいますが、殆どの言い合いは、その前提となる事実の確認を徹底すれば終わります。それでも相手が納得しない場合、その人は全く異なる信念体系に属する人なので、議論は不可能です。
私も気をつけなければいけませんが、よくよく物事を見て、事実に基づいて地に足がついた生き方をしていきたいものです。
皆さんもこうした前提を踏まえて無益な「議論」のような喧嘩に陥らないように注意してみてはいかがでしょうか。