スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

つれづれ2 本当に無駄な事とは?

今日も、中途覚醒してしまったので、ブログを書いています。

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この間、言った通り、昨日は思いついた事をメモしてみました。

今週末は、思考の整理について詳細を書きたいと思っているのと、簡略化した誰でも読みやすいバージョンを書こうと思っています。

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それに関連して考えた事を少しここで紹介します。

 

思考の整理の記事で、私は「人生とは幸福あるいは快を最大化するゲームなのだ」と述べました。これは人生がビデオゲームのようなものであるという意味ではありません。ですが、簡単の為にそうしたゲームを想像して貰っても構いません。

人生をゲームと見なす事にはメリットとデメリットがありますね。

ゲームと現実には違いがあります。イーロン・マスク氏は、人生は「クソゲー」であると述べていたと思います。精確な引用ではないですが、グラフィックは非常に優れているが、パラメーターが多すぎて管理が困難であるという旨を述べていました。

マスク氏は発達障害である事で知られていますが、確かに人生は気をつけなくてはならない事が多く、ゲームのように完全攻略する事は難しいというか、無理でしょう。健常者でもできないので、発達障害の人には余計に人生やそのステージである世界が理不尽なものに思えるかも知れませんね。

私も、この世界の全てのパラメーターを理解してはいません。人間には無理でしょう。全能の神なら分かるのかも知れませんが、それは誰にも分からないという言明と同義ですね。

ゲームに隠しパラメーターというものがあったりしますが、人生は隠しパラメーターに満ちています。そもそも体力ゲージも見えません。自分の感覚が自分を欺く事すらありますね。

これを前提として、最近、私が着目している事を話したいと思います。

 

人間は自分の力を見誤る事が多いですが、思考のリソースは有限だと思います。

リソースとは資源の事です。自分が使える残りのエネルギーのようなものを想像して貰えれば良いと思います。要するに、隠しパラメーターです。

実際に、一日に判断できる回数は決まっているという研究もあるそうです。

となると思考の節約が必要になります。

 

無駄な事は考えないという事が大切になりますが、では無駄とは何でしょう。

無駄について考えた人もいます。

東大の西成教授によれば、無駄は、目標を設定しないと分からないものだそうです。何か目標、目的を設定した時に最終的にそこに到達するまでの最短距離が初めて定まるのでそれによって、必要ない事が分かる訳ですね。

だから人生には決まった目標が元々ないので、無駄は存在しない事になります。あらゆる行為が何かの理由によって自分の関心によって引き起こされるという事です。YouTubeの動画をだらだら見てしまったとしても、それは無駄ではなく、自分の心を満足させる為の行為という事です。しかし、もしあなたが何か資格試験を控えていて、勉強が必要なのであれば、YouTube動画をだらだら見ず、勉強をするべきだったと思うかも知れません。ここで初めて、YouTubeは無駄という事になるのです。

人生はラスボスを倒せば終わりのロールプレイングゲームとは異なるので、本来無駄なものは多分無いのだと思います。繰り返しになりますが、全ての行為は自分の欲求の発露であり、それを制限しなければいけないという思いは、何かをしなければならないという目標、目的ありきの事なのです。

人生はシンプルだという人がいます。そういう考えもありますが、実際には世界は単純ではないと私は思います。

既に結構、複雑になっていますが、もっと複雑になります。

ここで価値観が登場します。

何が幸福であるか、快であるかは個人によって異なりますね。価値観は、思想の違いというだけではなく、体質等生まれもった性質の違いによっても左右されると思われます。

人生は、「自分」が幸福になる為のゲームと見なす事ができますが、世界は全ての人が幸福になろうとして藻掻くゲームです。自分の人生の主人公は自分ですが、この世界は言わば群像劇ですね。そうなると、そこに様々な競争や、衝突、対立が生じる事になるのです。

 

以前、基本的な事という記事を書いて、そこで私は人を傷付けない事が大切だと述べました。

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これはこれで重要だと思います。

しかし、こうも考えられるのではないでしょうか。

例えば、何か誰かが間違っている事をした時、それを止めるのは「正しい」事だとされたりしますが、その結果、その人が傷付くという事も考えられる訳で、誰も全く傷付けないというのは現実的ではない事が分かるかと思います。

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時には、真実が人を傷付ける事もありますよね。こんな考えもあります。

「そもそも、この世界には善悪とか正しいとか正しくないという事は存在しないのだ」

これはどういう事かと言うと、人間は皆、自分の都合で物事を考えていて、善悪とか正しいとか正しくないというのは、権力者やその時代の多数派が言っている人間の都合によって作られた「建前」でしかないのだという考えです。

これは難しい言葉で言うと一種のニヒリズムだと思いますが、割とこういう考えは根強いです。(ニヒリズムとは極端に言えば、全てはそもそも無意味であるという思想です)

実際、この考えは私の、人生は幸福になるゲームなのだとか、世界は人間が幸福になろうとしているゲームなのだとか、幸福や快を最大化するゲームなのだという主張とかなり似ています。

私は正しい事が存在しないとか善悪はないのだと断言する気はありませんが、そう言いたくなる気持ちも少しは分かります。そう考えるとすっきりしますし、自分の都合、エゴを善悪という言葉で飾って利用する人間は多いからです。

 

人に考えを押しつける事は悪だと考える人は存外多いですが、その一方で、人を傷付ける事も悪だとされたりします。では、誰かに正しい事を求めたり、間違いを訂正したりする事は考えの押しつけで悪なのでしょうか。かなり問題が複雑化してきましたね。

こういう事全般が、多数決で決まると思っている人もいますが、私は微妙だと思います。例えば法律は多数決で採用されたりしますが、一度決まれば誰もがその運用においては同じ扱いで裁かれる事になるからです。(実際にそうなっていないという意見もあるとは思いますが)

 

こういう訳で、現実はとても複雑です。この事を「人間関係の力学」という文章でまとめようかと思っていますが、それはまだ先の事になりそうです。

話を戻すと、要するにこの世界は、自分が幸福になるゲームであると見做す事ができるが、その過程で様々な他者の求める事柄が自分にとって障害として現れてくるのだという事です。人それぞれ価値観が違うからですね。

ある人が人の話を聞かない人は嫌いだと言っている時、実は話を聞いている側は、その人の話が絶望的に詰まらないので聞きたくないのかも知れません。誰かが話を聞いて欲しいと思っている時、誰かは愚痴を延々聞きたくないと思っているかも知れませんよね。自分にとって、利益になる行動が、他人にとっても利益になるという事はむしろ稀で、殆どの場合、何かを得ようとすると、何かは失われる事になります。多くの場合、資源が有限だからですね。

思考は節約したいものですが、そもそも何が究極目的なのか判然としません。自分の理想に邁進した結果、誰かにとってかけがえのないものが失われる可能性もある訳です。例えば、誰かがお金持ちになろうとして事業を推進した結果、誰かがその影響で死ぬという事も考えられます。

例えば、イーロン・マスク氏は大富豪ですが、彼の作った電気自動車による事故で何名もの人が亡くなっています。これは自動運転がらみで訴訟にもなっています。複数のパラメーターがあって、人間には捉えきれないのに、自分の目的に為にそれらを無視すると、最終的に取り返しのつかない事になるという可能性も十分あるのです。

思考を節約する為には、何かを無駄であると定義する必要があります。その無駄を定義する為には何か目標を設定する必要があるのです。ここで、最大多数の最大幸福という功利主義の言葉を引っ張ってきて、多くの人が幸せになれる事を目指そうとした場合でも、少数者の苦しみというのは避けられないのかも知れないですね。

哲学が、幸せとか究極目的を簡単に定義できないのは、こういう事情があると思います。そこで、哲学は役に立たないとか、意味がない、あるいは同じ事を延々考えていて、生産性がないという意見が出てくる訳です。

 

他人の事を気にかけず、自分の幸福の為だけに突進していく生き方が、自分にとって「本当に幸福なのか」という事について結構、考えています。お金を求めて他人に嫌われて「成功」した結果、実は幸せではないみたいな事はあり得ると思うんです。

できる限り、全ての人が幸福になる選択肢を選んでいきたいと私は思っています。きっと、間違えてばかりだし、綺麗事にしか聞こえないかも知れませんし、結局、自己責任というか手の届く範囲の人間しか助けられないし、それどころか自分の事をやるのに精一杯になってしまうかも知れないですが、色々若い内に試行錯誤する事は「無駄」ではないと私は思うんですよね。

 

皆さんは究極の目的とは何だと思いますか?

 

という訳で、落ちという落ちがないですが、この辺で今日は寝る事にします。皆さんも良い夢が見られますように。