スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

つれづれ7 文化相対主義とその欠点

今日も、寝付けないのでブログを書いてみましょう。

日本は良く無宗教と言われたりしますが、実際には何かしらの文化的背景を持っているようです。ですから、宗教施設が攻撃されたりしたと感じると、反撃したりします。

外国人の神社の参拝マナーが問題になったりしますが、外国人は日本人が無宗教であると思っているので、宗教施設に敬意を払ったりしません。

無宗教ではなく、「無の宗教」あるいは文化相対主義、宗教普遍主義なのでしょう。

文化相対主義とは、全ての文化を相対化して普遍的なものとは見なさない立場です。人間生活が肉体であり骨組みだとしたら、文化はそれを取り巻くファッションないし肉であるという発想ですね。

宗教普遍主義とは、何かの普遍的価値の周りを様々な宗教が取り巻いているという考えです。似た言葉に汎神論というものがあります。汎神論とは全てのものに神が宿っているという八百万の神信仰に似た考えで、世界のあらゆるものが神であるという発想です。この思想の代表的な論者はスピノザです。

こういう思想は漫画やアニメやゲームにも良く表れています。

そういう物語だと大体の場合、一神教的組織は敵として出てきます。教皇が黒幕だったりします。そういう組織は排他的であり、不寛容で本当の神を知らないという事になっています。

欧米の宗教観は全く逆で、一神教です。唯一の真理、唯一の神がいて、それ以外の様々な宗教は偽物であり、悪魔であるという発想です。これはイスラム教もそうです。

欧米でもギリシャ神話とかその他の宗教はありますが、それを今でも信仰している人は稀であり、キリスト教か、仏教あるいは無神論です。無宗教というのは一般的に無神論を意味しますので、すれ違いがおきるのです。

インドはヒンズー教ですが、これも多神教でありながら排他性を持っています。

日本も神道や仏教が融合した思想とナショナリズムが結びつき、排他性を持っています。しかし、内部にいるとこの排他性には気がつきにくいものです。日本人は外国の宗教に寛容だと思っているようですが、実際には外国の宗教が独自性を主張すると反発します。受け入れていると言いますが、そこには明確な線引きがある訳です。キリストも仏陀八百万の神という発想は、むしろ一神教には冒涜に見えるという事です。

どの宗教も、結局は自分の宗教、文化が一番だと思っている点で全く同じです。

決め手となるのは何らかの存在の証明ですが、そういう事は基本的にどの宗教もできていません。

科学、とりわけ自然科学なら唯一の真理という考えもあながち間違いではないと言えますが、文化に関してはなかなかそうもいきません。どの国でも人殺しや盗みは悪い事で嘘をついてはいけないと言われたりしていますが、敵対する国に対しては人殺しも正当化される事がありますね。キリスト教では、キリストと呼ばれるイエスが神で、その教えが真理とされますが、無抵抗なら殺されてしまう事もあります。

実際、キリスト教を奉じる国家も戦争をしています。こういう点に矛盾を感じてしまうのも無理はありません。

お前はどっちの味方なんだと言われるかも知れませんが、私はどちらの味方でもありません。私はある意味では不可知論者なので、神的なものは存在するとしても良いと思っていますが、特定宗教が他の宗教を正義の名の下に攻撃する事には欺瞞を感じます。確かに敵を愛せとか、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せという教えを実行するのは困難です。しかし、それをかなぐり捨ててしまえば、その教えに価値は最早なくなると思います。キリスト教にせよ、何にせよ、他の人間に敬意を払い尊重しない宗教は人を愛しているとは言えないと思います。

文化相対主義とか宗教普遍主義には欠点もあります。

それは多元化による混乱です。法律の解釈が多元化すれば、皆、自分勝手に行動して秩序が無くなり、そこは混沌になります。皆、仲良くするのは無理なのかも知れませんが、敵対する事なく上手く住み分けて生きていく妥協が必要だと思います。その落としどころを探るのが政治であり、哲学だと思っています。

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しかし、考えが違う人同士がやり取りするのは確かに難しく、上手く共存すると言ってもなかなか上手くいかないのは理解できます。人間とは本当に難しいものですね。

陰謀論とか疑似科学も問題になっていますが、事実認識と価値判断を明確に切り分けて事実しか扱わないというのは難しいと思いますし、価値判断を全て留保して生活を営む事は不可能でしょうから、人間は生きている限り何らかのポジションを取らざるを得ないのだと思います。日本人が良く使う郷に入っては郷に従えという言葉がありますが、どこの国もこういう考えはあるのだと思います。「郷」のルールは国ごとに違う訳ですが、それを拒否して普遍的ルールを主張しても、そのルールの普遍性が何らかの客観的方法で証明されなければ、自分勝手な生き方だと見なされて淘汰されるでしょう。実際にそういう事はどこの国でも起きています。

改宗したら殺されたり、文化を主張したら迫害されたりする事もあります。何が正当で何が間違っているのか、判断するのは困難ですが、どうしても人間はその国のルールに従わざるを得ない事情があると思います。悲しい性ですが、拒否して生きていける程、人間は強くないですね。その辺の事情を「神様」が考慮してくれる事を祈るばかりです。

そろそろ寝る事にします。皆さん良い夢が見られますように。