スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

社会的つながりを持つ事の重要性

貧困の原因は多様ですが、その中の一つに孤立が挙げられます。

経済的に困窮している状態を貧困と呼ぶ事が多いですが、それだけではなく社会的なつながりの喪失も貧困の大きな要素だと私は考えています。

 

貯蓄が0の人は貧困でしょうか?大きな収入があれば、違うと思われます。

では借金があれば貧困でしょうか?返す見込みがあれば貧困ではないかも知れません。

 

仕事がないというのは貧困の一つの要素だと思います。

就業できない理由は様々にありますので一概には言えないのですが、病気やけがなどの他に、社会的なつながりを失ってしまった事も挙げられるかも知れません。

伝手がないので仕事に就けないという事です。多くの場合、公的な機関や支援事業の支えによって仕事を見つける事ができますが、場合によっては仕事に就けない事もありえます。

一つは、犯罪によって前科前歴のせいで就業できない可能性が考えられます。これも社会的なつながりの喪失と言えるでしょう。こうなってしまった場合、ここから復帰するのは非常に難しくなってしまいます。一応、そうした境遇の人を雇ってくれる団体などはありますが、自由に就職を選ぶ事ができなくなってしまいますね。

そうならない為には、ルールを守る必要があります。社会のルールを把握して、それを遵守する事ができない人は、社会的なつながりが持てなくて貧困に陥る可能性があります。

社会のルール、法律も複雑化しています。そうなると、ルールの全体像を把握する事ができない知的な、あるいは認識上の障害を持っている人は孤立の可能性が高まります。

近年では、こうした問題が議論されています。

考えられる対処としては、社会の側がルール、規範、法律を弱者に向けて改善していき、社会的弱者を包摂する事、また、国民の側としては、社会のルールをできる限り把握するように務め、政治参加を通して社会的なつながりの問題に向き合っていく事です。

良く誤解がありますが、障害者は「悪い事をしたからなる」ものではありません。本人の不注意や不摂生によって障害を持つに至る可能性はあり得ますが、生得的な障害や、本人が避ける事ができない類いの障害もあり得ます。全体としては、社会は障害者を確実に生み出していくので、障害をあるものとしてそれを包摂する必要があると思います。

遺伝子を選別しても、その中から一定の割合で障害を持っている人は生まれてしまいます。障害をなくす事は現在の科学では、そしておそらく未来の科学技術でもほとんど不可能であると思われます。

障害があって、ルールを把握できない事と、単にルールを軽視している事は全く別の問題であって、後者は責任を問われるべきですが、どちらの場合も、社会はある程度その存在を包摂していかなければいけないのではないでしょうか。

 

人間は、絶対的な正しさを持つ事は困難です。どう定義するかによりますが基本的には不可能です。(刑法犯にならない事はできるでしょうが)ミスはなくならないですね。ミスの可能性を減らす努力はできますが、不測の事態はあり得ます。天災や、人間が予想できない次元でのトラブルに巻き込まれる可能性はいつでもあります。感染症や、何らかの疾病もそうですし、正しく生きれば、苦難がないというのは間違った認識です。むしろ、何らかの正しさを追求すると、世の中はその考えに対立する人々が必ずいるので、何らかのトラブルに発展する可能性の方が高いでしょう。

何らかの事件、事故に巻き込まれる可能性は誰にでもありますし、障害や病気にかかる可能性も誰にでもありますね。

 

貧困は経済的な問題のみならず、こうした角度からも考えられなければいけないと私は思います。貧しくても慎ましく生きていく事は可能ですし、一時的に貧困に陥っても社会的なつながり「信用」があれば再起する事ができますが、社会的なつながりの喪失が深刻だと再起は難しくなります。

あまり使いたくない言葉ですが「無敵の人」というネットスラングがあります。これによると、もう人生が「詰んで」しまい、どうにも首が回らなくなった人は社会に対してテロや問題を起こす可能性があるというのです。要するに、人生がうまくいかなくなって自暴自棄になった人が社会を恨んで復讐するというのです。

何でも人のせいにして、自分で努力をしない人を社会が助け続ける必要はないという意見もあり得ると思いますが、大体の場合、大きな事件を起こす人は過去に深刻な「社会的つながりの喪失」を経験しています。あるいは、障害を持っている場合もあります。

具体的には、2008年に起こった秋葉原の無差別殺傷事件の犯人は、教育虐待を受けていました。また、人とのつながりを持てずに悩んでいました。2019年に起こった京都アニメーションの放火殺人事件に関しては犯人が何らかの精神疾患を持っていたとされます。(障害による責任能力が裁判で争点となりましたが、最終的には障害による責任能力の喪失は認められず、限定的な影響として死刑判決が下っています)

私は、こうした事件に対して、社会がもっと寄り添っていればとか、誰かが話を聞いていれば犯罪は防げたとか言っている訳ではありません。もしかしたら、最大限に人々が優しくなっても悪い人間はいなくならないかも知れませんし、私はそう思っています。

ただ、こういう方向性で問題が起きる可能性が常にあり、それを何らかの方法で緩和する手段というのは講じておくべきだと考えるものです。

最近では闇バイトなどと称して人々を欺し、犯罪に加担させる動きもあります。他にも色々なリスクが世の中にはあり、誰でも貧困に陥る可能性はあるのです。

 

常日頃、私達は、社会的なつながりを重視していくべきだと私は考えています。仕事をする他に、地域のボランティア活動にも参加しています。家族や友人を大切にするだけではなく、できるだけ多くの人に良い影響を与えられるようになりたいものです。

困窮してから社会的なつながりを持とうとしても難しい事が多いです。その場合、差し伸べられた手を大切にする事が必要です。困窮する前に、私達は、余力がある時に人助けをしておくべきではないかと考えています。これによって、何かあった場合も、誰かに助けてもらえる可能性が高まるのではないでしょうか?

 

お金を重視するのは必要な事です。しかし、お金を重視するあまり、何らかの問題を引き起こす可能性もあります。簡単なお金儲けと称して詐欺に加担させる手口もあります。短期的な利益を追求するあまり、長期的には問題が起きる事もありますね。信用を失う事もあります。お金そのものよりも、信用の方が大切ですし、社会的なつながりという無形の財産を大切にする事が人間の幸福度を上げ、また社会全体のためにもなるのではないかと私は考えています。