スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

正義の不良

この文章は、特に何かの実験とか科学による裏付けがある訳ではない。

私の主観的経験を書きなぐったゴミブログだ。私の目的はアフィリエイトで小銭を稼ぐ事だ。そこで、こんな下らない記事を書いている。

 

世の中には様々な人間がいる。善人もいれば、悪人もいるだろう。中には早く死んだ方が世の中の為なのではないかという人間もいると、あなたは思うかも知れないし、また、あなたもそう思われているかも知れない。

 

ともかくとして、世の中には色々なタイプの人間がいて混沌としている。

善悪があるという人間、ないという人間、基準もまちまちだ。法律を守るべきだという人間。破れという人間。

 

私が今回話したいのは、正義の不良という幻想である。

不良は一般的には悪である。しかし、世の中には悪いやつを懲らしめる、良い不良がいるという幻想がある、と私は思う。

その代表は不良漫画やドラマに見られる。あるいはアウトローを主人公とした作品だ。殺し屋が世直しする等というものもある。法で裁けない悪を裁くとか何とか。

 

罪刑法定主義はどこに行ったのか。

民衆は勧善懲悪が好きで、私刑が好きである。民意は無謬ではないのに。

 

私もそうした作品をフィクションとして楽しむ事がある。そうした作品では、真の外道は、正義の不良にやられる。殺される場合もあるし、殺されない場合もある。殺される奴には、大体相応の理由がある。復讐や敵討ちの場合もある。

 

しかし、世の中を見てみると、悪人が必ず罰を受け、善人がいつも報われているようには見えない。尤も何が善で何が悪で、どこからが「生き残りゾーン」で、どこからが「死ぬべき犯罪者ゾーン」なのかは曖昧で定かではない。善人が悪事を働くかも知れない。魔が差すという言葉もある。レアケースかも知れないが、悪人が悔い改めて善人になる、なろうとする事もあり得るかも知れない。良く分からない。だが、世の人は漠然と、世の中は不条理であると感じ、何か正義の神の使者的な存在が、世直ししてくれる事を望んでいるように思う。

 

それが結実したのが、正義の不良という概念だ。

 

あなたは学生時代いじめられた事があるだろうか。実はいじめたり、懲らしめたりするのは楽しいのだ。自分を正義の側に置いて相手を支配する。上に立ち踏みにじる。私のような底辺は真っ青になるしかない。

だからいじめはなくならない。

いじめられる奴にも理由がある等と言う人間もいる。要するにいじめられる奴が悪くて、自分は悪くないか、悪だったとしても、理由があり、それなりに必要な事をやったという訳だ。

 

これが正義の不良のなり損ないである。

 

ある精神科医が、いや、複数の医者が、真面目過ぎる事は欠点であると言っていた。

ガリ勉。几帳面。潔癖。学級委員タイプや、風紀委員タイプ。そういう人間はいじめのターゲットになりやすい。

鼻持ちならない「偽善的な」正義のヒーロー様を懲らしめてやろうというのである。

 

実は、こういう善人を目指しすぎるとかえって苦しむというケースは、古代にも見られていて普遍的なようである。

例えば、ユダヤ聖典である旧約聖書、コヘレトの言葉にもこう書かれている。

『この空しい人生の日々に わたしはすべてを見極めた。 善人がその善のゆえに滅びることもあり 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。 善人すぎるな、賢すぎるな どうして滅びてよかろう。 悪事をすごすな、愚かすぎるな どうして時も来ないのに死んでよかろう。 一つのことをつかむのはよいが ほかのことからも手を放してはいけない。 神を畏れ敬えば どちらをも成し遂げることができる。』
コヘレトの言葉 7:15‭-‬18 新共同訳より引用

 

この後に、善だけを行うものはいない、と続くのであるが、長いのでこの辺にしておく。興味があれば、読んでみて欲しい。正しくあれ、善を行えと書いてあるように思われがちな聖書にも、こんな記述がある。

 

人間はある程度、適当で不真面目である方が生きやすいのかも知れない。異論はあるだろうが。

 

悪すぎてもいけない。犯罪をすれば捕まるし、社会的に制裁を受ける。だが、正しさを求めても苦しむ事になる。

アリストテレスもニコマコス倫理学の中で、中庸の徳を説いている。

 

このように世の中は不可解である。

暗黙の了解やさじ加減が分からないタイプの人間、ASD傾向のある人間はさぞ生きづらかろう。

世は、混沌としながらも、人々は正義の不良たる救世主を待ち望んでいる…のかも知れない。