スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

常々感じている疑問 世界はシンプルか

良く世界はシンプルだという人がいる。

しかし、本当にそうだろうか。

私は昔から良く分からない。

 


あなたは世界はシンプルだと思っているだろうか。

もし、そうなら質問をしたい。

あなたは自分や周囲の人間が単純だと思っていますか?

きっと殆どの人間が、世界はシンプルだと言いながらも、人間は複雑で多面的なものだと思っているのではないか?

 


この世界という言葉は何を指すのだろうか?

物理宇宙の事だろうか?それとも人間社会の事だろうか?あるいはその両方だろうか。

 


物理宇宙の事であれば、自然科学者に聞いてみるのが良いだろうか。

私は色々と本で調べたり、可能な限り周囲の人間に聞いてみた。

殆どの人が世界はシンプルではないと言っていた。

世界は一つとか二つの数式で表せるという人がいたりする。

しかし、実際は全然そんな事はない。自然現象を一つの数式で表せるという人は自然現象を知らないのだ。

 


人間社会であればどうだろう。アドラーという心理学者は、世界はシンプルなのに人間がわざわざ複雑にしているのだと述べたという。(アドラーは殆ど著作を残さなかったので、私は彼の著作を読んでいない。伝聞で他の人がそう言ったと言っているのを知っただけだが)本当にそうだろうか。

例えば、一つの社会問題をピックアップしてみた時、その問題にシンプルな答えは出るだろうか?又、誰か一人の心の動きを見てみた時、簡単な道筋を示して、そう行為するのが正しいと断言出来るだろうか?多くの人は、社会問題で異なった見解を示し、又、一人の人間の人生における心の在り方でさえも、様々な宗教的立場、哲学的立場から色々な事が言えてしまうのではないか?

 


世界がシンプルだというのは、私からすれば一つの願望である。

その願望が何かに合致した時に、人間は快感を感じるのだ。

例えば、嘘をついてはいけないという命題について考えた時、それがあらゆる文化文明で普遍的に見られる戒律であるとするならば、その普遍的な在り方を抽出して世界はシンプルだという事が出来るかも知れない。

しかし、実際には人は秘密を抱えるものである。社会に出て、それなりに信頼される立場に立った者ならば、皆、分かる事だが職務上の守秘義務というものがあり、法律でも定められている。

嘘をついてはいけないという事と、質問に答えないという事は両立するのだ。

嘘をつかないという事は何でも話すという事ではない。

これと誠実性に関しては又、異なる問題だとは思うけれども。

一般的に人は道徳に反するとか、法律に反するとか思わない限り、全てを語る訳ではない。又、語られた事が全てである訳ではない。

沈黙する事は、虚偽を答える事とは異なるのである。

又、例えば病気の告知等で患者に本当の事を言うとショックを与えてしまうので、本当の事を言わない等も考えられる。

仏教には嘘も方便という言葉がある。目的が正しければ、嘘の話をする事が正当化されるという考えもある。これには異論があると思うが、単純に嘘は絶対についてはいけないという考えもある為、こういう書き方になった。(カントの哲学に見られる)

 


私の考えを書けば、世界はシンプルではないし、人間も、その集合である社会も、全くシンプルではない。人間が世界をシンプルだと考える時、世界は人間の願望の形に歪むとさえ考えている。尤も、ここで歪むのは世界というよりも人間の世界観だけれども。

 


物事を出来るだけありのままに見、考えようとする事と、世界を単純だと考えようとする事は根本的に異なると私は思う。

複雑な事を分かりやすく説明しろというのも、私はある一定の次元では不可能だと思っているし、複雑な事を単純に考えるというのも、実際には複雑な事象を全然捉えられておらず、無理に簡単化している為に、必要な要素が抜け落ちて物事を考えられていないと私は思う。(要素還元主義の事)

 


人間は、どう足掻いても、世界の全ての出来事を把握出来ないので、ある一定のレベルで抽象化する事は大切だと思うが、それは一つの方法論に過ぎなくて物事の根本的解決策にはならないと思っている。むしろ有害なのは、世界のあらゆる問題を簡単な一つか二つのやり方で解決出来ると思う事の方だと思っている。物事は個別に様々な方法で解決されるものである。

単純な二項対立構造を作り出し、悪の組織が世界を牛耳っているから世界は悪くなっているとか考える事。無理な単純化、これこそが究極的には陰謀論である。そうする事で人間は楽になれる。何故なら、複雑な事を考えなくて良いからだ。真実に向き合わなくて良いからである。本当の社会問題は人が複雑で、又、それぞれの人間がバラバラに「自分が正しい」と思って価値観を押しつけ合う時に発生すると私は考えている。各々が「自分の目に良い」と見える事を行っているという訳だ。

 


人が生きるにあたって普遍なルールというものはもしかしたらあるかも知れない。人を殺害してはいけないとか。物を盗んではいけないとか。上に書いた嘘もそうだ。

しかし、極限状態では例外の場合が考えられる。

強盗が逃げて誰かが襲われようとしている時、誰か、例えば警官がその強盗を撃ち殺すのは許されるべきかとか。貧しい人が災害の時に生き延びる為に、何かを盗むのは許されるべきかとか。(実際に、日本には緊急避難という法律がある)

 


人の命は平等か?

人の価値は「その人の生き方で決まる」等と言われたりする。

しかし、何故そうならば人の生育環境に重大な影響を及ぼす、親(の人格)、その教育方針や資産状況は平等ではないのか?

 


結局、こういう全ての問題や資産の偏在に蓋をする考えこそが、ある種の信仰のような形で残っている。それが「世界はシンプル」という考えなのだと思う。

 


実際には、世界は全然単純ではなくてむしろ複雑なのだが、それを捉えられない人間がむしろ「神」を作り出したのではないかと私は思う。

しかもそれは謂わば偽の神である。もし、神というものがいるのならば、それは人間には人間に対して超越的存在であるが故に理解を超えるものであるだろう。もし、本当にそういう神を信仰しているのならば、世界はむしろ人間の理解を超えるというべきであろう。だから、そこには畏敬の念、畏怖の感情がなければならないし、実際にあった筈だ。

 


「こういう風に考えれば世界のあらゆる問題は消滅するし、その単純なルールに従わない人間は悪であるし、愚か者である」という簡単化こそが、多くの人間の世界観を歪め、又、実際に社会を歪め、社会問題を作り出していると私は思う。その一つの暴力的考え方が人間を抑圧し、その結果、反動として暴動や経済的破綻を招くのである。

 


これは宗教の問題であるだけではなく、哲学や政治の問題でもあると私は思っている。

だが、多くの人が「世界はシンプルだ」というスローガンに毒されていると私は感じる。