「孤独は街にある」
普通に考えたら孤独は街にあるのではなく、独りぼっちのどこか街外れにあると考えそうなものだが、寺山修司の意図する所は別にある。
周囲に人が多くても、孤独感を感じる人がいるという。
孤独は周囲に人がいるかいないかという物理的条件によって左右されるものではなくて、主観的な心の問題だという。
だから、周囲に人が大勢いて賑わっている街にいても孤独を感じる人がいる。実際に、独りぼっちでも孤独感を感じない人もいる。そうなると、街にいて孤独を感じている人の孤独の方が一層深い事になり「孤独は街にある」という事になるのだろうと私は考える。物理的孤独よりも、精神的孤独の方が深刻だ。上で紹介した本にも、精神的孤独は人間の健康を蝕み、寿命を縮めるという事が書かれている。
では、何故に人は人に囲まれていても孤独感を感じてしまうのか。
それは人との信頼や精神的繋がりが壊れているからだ。
例えば、犯罪をして、周囲の人間から白眼視されている人がいるとする。彼は、自分を知らない街に逃げるかも知れない。きっとそこには大勢の人がいるだろう。しかし、彼の事を誰も知らない。これが孤独だ。
秘密を抱えると孤独になる場合もある。人に言えない秘密が人との間に壁を作る。
逆に考えると、人との関係を壊さないように、人に言えない事や悪い事をしない、犯罪をしない事が孤独感を深めない条件になってくる。念の為に言っておくが、こういう条件をクリアしても尚、孤独を感じる人もいる。だから孤独を感じている人が悪人だと決めつけないで欲しい。
そういう人は人との価値観にズレがあったりする。
自由は孤独と背中合わせだ。自分独自の考えを持つという事は、人に理解されないリスクを負うという事だ。だから、人に合わせて自分の考えを言えないという人もいる。大衆に迎合して、大勢の価値観に合わせれば孤独が紛れるような気がするという人も大勢いるだろうと思う。
そういう葛藤を一歩踏み出して、孤独でもいいやと思う事が出来るかどうかも重要になってくる。物理的に孤独であっても、誰かと深い精神的繋がりがあれば孤独感に苛まれる事はない。多くの人に支持される事より、少数でも自分を分かってくれる人を見つける方が大切かも知れない。
又、個人の価値観やその集合よりも大きな何か一貫した思想を求める人もいる。そういう人が哲学や宗教をやるのだ。普遍的なあるいは絶対的な価値というものがあれば、人の世が移ろっても自分の価値観はより大きな存在に肯定されるという訳だ。
だが、果たして絶対的価値というものがあるのだろうか。ここは哲学者や宗教家の間でも意見は分かれる。
例えば、キリスト教ならば、神は絶対なので信仰を持って正しく生きれば孤独ではないと言うだろう。実際、キリスト教は集まっての礼拝があるので骨の髄までキリスト教の価値観に染まれば(そうでないと孤独は一層深くなりそうだが)孤独は軽減されると思われる。
仏教ならば、孤独を受け入れる方向に向かうのではないだろうか。仏教は法事の時以外では頻繁に集まる事はない。自分が世間に対して、あるいは宗教的対象である仏とかに対して誠実に生きているかどうかが専ら問題になってくると思う。日本はどちらかと言えば、こちらの考え方が強いだろう。
哲学には、絶対的価値観や普遍性を肯定する立場と、そうではない立場がある。そうなると、絶対や普遍を認めない立場では移ろっていくものとともに変化して生きていくという考えに近くなるだろう。これはなかなかに難しいと思われる。しかし、社会全体はこちらの方に向かっているようにも思う。
孤独の問題は価値観、生き方・ライフスタイルの問題だと私は思っている。そうした意味で、思想や宗教や、あるいは法規やマナー、モラルを学ぶ意義は年々高まっていると思う。