スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

欲望を超えるものの可能性

gomiblog.hateblo.jp

 

この記事を踏まえて、備忘録的に現段階で考えた事を記しておきます。

 

人間社会は欲望によって構成されていると私は考えている。
宇宙は物質と人間の意識的な営みでできていると私は考えている。
物質宇宙は、物質宇宙の秩序を持っている。
人間は物質を利用するその可能性の中で、自分の生活を豊かにしようと社会を形成し、事業を営む。
社会は秩序を求める。これも人間の安全の欲望が根拠である。
行動の源泉は生きたいという欲望、苦しみを避けようとする欲望、より良いものであろうとする欲望など。
欲望には様々な形があり、快を求める欲望もある一方、自ら苦しみを求める場合もあり得る。
とりわけ承認の欲求は強い力を持っていて、人に認められるために人は命も危険にさらす。
地位や名声の為に、人は多大な苦しみを引き受ける場合もある。
こうした事情を踏まえて、何らかの意図において、それらの逆を行くという人間もいるかも知れない。
何々と言う定義にしたがって人間は生きているという言い方が人間には当てはまらない。
人間は定義を作り替えたり、壊そうとする力を持っている。
支配の欲望がある一方、それを破壊したいと言う自由の欲望もある。
人はかくかくしかじかであるという言い方が困難なのはこの為だ。
ただ、全ての人間が生存の為の基本的欲求を持っている。
食べず、眠らない人間は死ぬ。
生殖がされなければ寿命で全個体が死ねば、人類は滅びる。
こういう事は当面克服されなさそうだ。そういう意味で、これらは根源的な欲望、欲求と言える。
人間には様々な欲望があるが、それらは総じて、
今の自分を何らかの形で救い出す為のシグナルであると言えるかも知れない。
例えば、痛いという反応がある。この痛みも人間には根源的だが、痛みを乗り越えたいとか、
痛みを消したいという欲望が次いで沸き起こる。
治療などの行為を通して、それを達成し、欲望は満足する。
救われたいという強い欲望がある。
何から救われたいかは人によって異なる。
主に何らかの強い苦しみや痛みからだろう。支配や抑圧である可能性もある。それも広い意味では痛苦である。
解放、自由。そうしたものを人は求めている。逆に「自由」からの解放を望む者もいるかも知れないが。
不安、不安定、不透明さ。そこから逃れたいという願い。祈り。
そうしたものが宗教を形作ったという発想がある。
神も人間の欲望だという発想がある。人間が救われたいが為に作り出した幻想だという考えだ。
全ての人間の行為が何らかの形の脱出であると言えるかも知れない。
定義という支配、囚われ。定義からの脱出。
究極的な脱出は苦しみの多い、生からの脱出である。天上の世界という幻想。
こうした欲望が人間、人間社会を駆動しているという説について、
欲望を超える何かがあるのか?という問いが成り立つ。
宗教家は、私の言った事を否定するだろう。
いや、宗教は欲望ではない。神は存在する。などなど。これも一種の囚われ、定義からの脱出であるが。
では、神は存在するとどうして言えるか。
科学によって神の存在は明らかになっておらず、哲学、宗教談義、神学によって試みられた「証明」は何らかの点で欠陥があると言える。カントによる整理。詳細は省くが、人間が望むような神が実在するという証明にはなっていない。
自然はあるし、物理宇宙は存在するように思われるが、これが神であるかというと宗教家は否定するだろう。
スピノザの神。
…最も可能性のある証明は、人間が欲望を超える事は可能であるか問う事によるだろう。
自分の欲望を超える為には、自分と対立する存在を肯定、受容しなければならない。
これを人は一般的に愛と呼ぶ。
愛も欲望とされる場合もあるが、単純な欲望ではない。
愛には苦しみが伴う。人は愛される事を望むが、愛する人は少ない。それは愛されるより、愛する方が困難だからだ。
愛は欲望を超越しようとする次の次元の欲望と言えるかも知れない。
もしも、人間が自分の全存在をかけて自分の対立者、自分を否定するもの、敵を愛する事が可能ならばそれこそが欲望を超える存在、真の囚われからの脱出なのではないか。
神は愛だという一説がある。もしも、人間の欲望から純粋な愛があるのならば、これが神ではないか。
または、神が人間と独立に存在するのであれば、そこにこそ神が現れるのではないか。啓示。

哲学的な真理の言辞は、権威性を持つ。
倫理には、それが一度公に語られると人を従わせる強制性があり、
人より良いものであろうとする欲望は競争を生む。
この意味で、真理とされる事柄は常に無限の攻撃を受けている。
ある学説が正しいとされると、それによって抑圧される立場の人間は、
自分の正義によって、正確には欲望によって、その学説を攻撃する。
全ての人間にとって、正しい学説というものが出来上がるまでこれは続くだろうし、
もしかしたら人間はある意味、部分的にしか物事を知り得ず盲いているので、善政が敷かれても政治を攻撃するように、正しい状態を束縛されているとして攻撃するかも知れない。この意味で絶えず、真理は「脱」構築されている。
だから真理とは人間には語り得ないのだと私は考える。
又、逆説的に真理とは語られ得ない事なのだと言える。
真理は愛ではないか。

老子は、道は語られず、語られたものは既に道ではないと述べた。
この意味で、真理は語られない愛の行為なのではないだろうか。
真理の完成…「最も正しい学説」が、その逆に位置する価値観を包摂した時、これは達成される。
ある種の正しさが片手落ちだとしても、その対立者を肯定する事によって完全になる事ができる。
愛は紐帯であり、様々の価値観を結びつける力を持つ。
この意味で哲学は学説ではなく、活動なのではないか。
完全な愛が達成される事で…それは人間には不可能に思われるが…この世界に天上の世界が実現するのかも知れない。

補足・人間は罪人は愛せるかも知れないが「悪」は愛せないかも知れない。