スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

存在と欲望 ~多様な正しさ、欲望とその構築物としての社会、欲望による「共同」幻想~

はじめに

Twitterのアンケートで貧困問題とゲームと、その他思想のどれか、得票が多かったものを書くと言ったのですが、結果、何とその他の思想になりました。

自由に書けると逆に何を書いて良いか分からなくなりますね。

色々な事を思いつきます。

ですが、わざわざ書いて人に見せるとなるとそれなりに意味のあるものではないといけないとか考えてしまいますね。

過去に書いた文章を参考に、人生に役立ちそうな情報、私が今まで書いてきて反応があった記事の内容を踏まえながら書いてみる事にしましょう。

この記事は、私の考えを総括したような内容で、非常な長文です。ですから、一度に読まないで、少しずつ読んでいく事をおすすめします。

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正しさの類型

今日は、最近私が考えている「正しさ」についての文章を書いてみる事にしましょう。

以前、こんな文章も書いていますね。

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正しさには幾つかの種類があると私は考えています。

例えば、法律を守るのは正しい事だと言う時、人は無意識に二つの正しさの基準を前提にしています。

一つは法律を正しいものであると言えるだけの根拠、倫理的正しさです。

もう一つはこうです。上の文章は法律は守るべきものだとした上で、法律を守る事は、法律的に正しいという事を主張している訳ですね。

ちょっと考えにくい事ですが、法律が悪くても守るべきだと言った人もいます。ソクラテスですね。ソクラテスは悪法も法と述べました。確かに、ソクラテス無知の知、今は不知の自覚とか言われていますが、前提として絶対的な正義は知り得ないのではないかと言う考えを持っていたようです。だから、人々の合意で決まった法律がたとえ間違っていると感じたとしても、守る必要性を説いたのかも知れませんね。

この二つを区別するのは重要な事です。

法律が絶対に正しいとしてしまうと、法律が何かにそぐわない時、例えば技術の進歩によって法律が時代に合わない時に変える事ができなくなってしまいます。

法律はあくまでも人間がその時代にその時代に許された知識によって作った暫定解であるという風に私は理解しています。

これらとは別に、物理学的に正しいとか、生物学的に正しいとか、いわゆる自然科学における実験で確かめられた知識の正しさというものがあります。

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又、これとは別に事実の確かさの意味で事実はかくかくしかじかで間違いないという意味での描写の正しさというのもありますね。

自然科学は全て実験で正しさを確かめられる訳ではなく、実験ができない分野や、実験が難しい分野が存在します。こういうのを科学と呼んで良いのかという事について議論があり、それらは科学哲学という分野で議論されています。

おおざっぱに言うと、この世には「事実の正しさ、描写の正しさ」と「自然科学的正しさ、実験による正しさ」「倫理的正しさ」「法律的正しさ」が存在する事になりますね。他にも、何々の流派においてはこのマナーや作法が正しいという定義された枠組みの中での正しさというのもあります。儀式的正しさとかですね。

正しさを主張する事によって生じる社会的軋轢

こういう風に区別していくと人間は知らず知らずの内に、様々な正しさを取り扱う事になっていて、時にそれを混同したりする事があるという事が分かりますね。

 

多くの場合、人はこういう場面で揉めますね。

私は〇〇が正しいと思う。だからあなたも従いなさい。

この時、幾つかの反応が考えられます。

一つは従う事です。この場合は揉めませんね。

二つ目は反対する事です。〇〇は正しくないという主張が考えられます。

三つめは、主張自体は正しいが「お前に言われたくはない」という反応です。

四つ目は、それはあなたの領域では正しいが、この場合は正しくないという反応ですね。例えば、何かの宗教での正しさを別の場所で主張した場合に起こります。

 

人が揉めるのは、価値観が違うからだと言われたりします。それは雑に言えば、採用している価値基準が異なる為、正しさが異なるからです。もしくは物事の優先順位ですね。

 

皆が、同じ価値観を採用するというのは現代では現実的ではありませんし、過去においても困難でした。封建制のような人々の自由が制限されている政治体制であっても、人々の思想を完全に統制する事はできていませんね。もちろん、法律を犯せば犯罪者として罰則があった訳ですし、異端的な考えを持てば、批判され追放されたりしたのですが、こういう事の繰り返しの末に、現代では人々が自由な価値観を持つ事がある程度許されています。

宗教と政治の話はするなと良く言われますが、これはそれらがアイデンティティーに深く結びついていて、かつ、何が正しいのかを実験で確かめるのが困難であり、水掛け論になりやすいからですね。

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正しさと権力

正しさというのは一つの力です。権力であるという事ができます。

例えば、警察力や、裁判所は一つの権力です。これらと関係する政治家の力も権力です。彼らは立法に関わります。もちろん彼ら自身も法律で拘束はされていますが、民衆に比べて権力に近いと言う事ができますね。

正しさがあっても、従わない人もいますよね。これには幾つかのパターンが考えられますが、悪人は君は間違っていると言われたら、はいそうですと答えるでしょうか?違いますね。又、正しさの認識に差異がありすぎて、自分では間違っていると自覚していない人もいますよね。

そこで、警察や裁判所は武力という後ろ盾を持っています。これは国民の信任によって成立しており、民意がお墨付きを与えている公的な暴力装置です。(暴力装置社会学の用語です)こういうものがないと従わない人もいます。

又、悪い事をした人、犯罪歴がある人は重要な役職に就けないという社会の要請も存在します。これは権力の濫用を防ぐ意味もあります。

権力は、今の時代においては民衆の欲求の集合である社会の要請によって成立しています。もっと平たく言うと、人々は、自分の安全とか気持ち良い事を守る為に「力」を持った正義のヒーローを求めているという事です。極論で言えば、これが警察の理想です。

権力は欲望によって裏付けられている

欲望というと悪い事のように思われますが、欲求は誰でも持っています。

権力は人間の欲望によって構築されているというのは、間違いではないでしょう。

人は、自分が気持ち良い、快である、死にたくない、苦痛を避けたい、安全であると言った欲望によって支えられて生きています。この欲望を基本的欲求と述べたりします。

食べたいとか、飲みたいとか、安全な住む場所や衣服が欲しいとかですね。

社会は、こういう一人一人の人間の欲求の総体、集合です。

社会は、社会の成員の欲求を満たす為に駆動しています。

平たく言うと、社会というのは、人々の欲で動いています。方向性や、運動は人々の欲で決まっているのです。

欲の中には悪い欲と、良い欲があると言う人もいます。

これは自分にとって、あるいは社会にとって害があるかないかで定められます。

逆に言うと、人を批判する事が自己保存や社会の利益から逸脱している場合は、それ自体が欲望であると見なされます。ある程度の事柄は欲望、欲求の衝突で説明できるでしょう。

あらゆるものを疑った時、人間は我思う我在りは疑い得ないと考えましたが、この我とは何かと言うと、欲望です。私の考えでは存在とは欲望です。

社会的に善とされるもの、人々を愛したいとか、世の中を良くしたいというのも欲望です。

人は、欲が摩擦を生み、衝突する事を回避する為に、法律を求めました。

これを私は欲求の交錯点に倫理が要請されると言う言葉で言い表しています。

法律は欲望の調整装置なのです。

そして、その法律に実行力を持たせる為に、人々は欲望を守ってくれる暴力装置に権力を与えています。言い方がアレですが、社会の秩序の為に、警察力にお墨付きを与えている訳です。

以前、思考を整理するという意図で、こんな文章を書きました。今考えると、ここに既に人間の欲求で社会が成り立っているという考えの萌芽がありました。

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一つの見方、あらゆるものは欲望の構築物である

宗教は神の教えだと言われます。しかし、神は科学的には観測されません。

そこで、人々は神は人間の幻想だとか、人間の発明物だとか言ったりします。

私の考えでは、こういう事もできます。

神とか宗教は欲望が作り出した構築物である。

これは宗教を信じている人からは批判されるでしょう。だから、一つの見方としておきましょう。宗教は、人間を超える超越存在が、人間に正しい事を教えたと言っています。しかし、実際には人間は神とか超越存在を何らかの手段で公的に認識できていません。個人で神秘体験をしたという人はいますが、科学的観測対象ではありませんよね。

神は人間が自分、あるいは共同体に権威を与える為に作り出した欲望の構築物である。そういう意味での共同幻想であると言う言い方もできるかも知れません。

宗教は、神が与えたという権威性を持たせる為の物語と戒律の合成物である。

これをマスターナラティブとか大きな物語と呼んだりしますね。

今の時代は、宗教が科学的に分析され解体され、幻想がなくなった代わりに人々が自分の信じたいものを信じるようになったポストトゥルースの時代だと言われています。

宗教に回帰する人、科学的哲学的に正しい事を定義しようとする人、己の欲望に従って生きる人、自分の信じたいものを信じようとする人、事実を見ようとする人、様々ですね。

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神なき世界と透明化された欲望

人々は、自分が正しいと思って生きています。自分が間違っていると思っていると主張する人でさえ、何かしらの価値観によって自分を裁いている点において、自分が正しいと思っています。

神なき世界に、人間は何を信じて生きていけば良いのでしょうか。

貧困に苦しむ人も多くいるでしょう。貧困の人々からすれば、宗教なんて暇なブルジョアのお遊びに見えるかも知れません。あるいは宗教家は何かのチャリティで人々を救済しているかも知れませんね。この点において、貧困者の見方と、生活安定者の見方は全然違う可能性があります。

とにかく、人々は自分の欲望を裏付けてくれる代弁者、権威を求めています。

Twitter言語化がどうとか言うのも、自分の代わりに腹話術的に自分の欲望が正しいと言って欲しいからでしょう。これは新しいスケープゴートです。

人々は、こうした構造にもっと自覚的になるべきだと私は考えています。

人は欲望によって依存させられたり、欲望によって操られたりします。

欲望があるから生きていけるのですが、欲望が過度になれば身を滅ぼします。

欲望の抑制やコントロールについて良く考える必要があります。

正しさに対する欲望というものもあり得るでしょう。

自分は正しいという欲望

人間は、自分は正しいとか、正しくありたいという欲望を基本的に持っています。

これが宗教や社会の基礎になっていると私は考えています。

自分が正しいというのも一つの欲望だというのは哲学や批判的な物の見方において基本的な事です。

自分の主張する正しさが何のカテゴリに属するのかを良く見極める必要があります。

倫理的正しさは実験で確かめるのが困難で社会の利益に引きずられる傾向があります。公共善が、少数弱者を弾圧する可能性もありますね。

法律は法律として正しいとしても、法律が何時の時代、世界においても絶対普遍的に正しいかは分かりません。

自然科学的正しさはエビデンスのレベルによって決まりますが、実験がデザインできなければ無効です。又、エビデンスだけで判断できない個別事案もあります。

事実の確かさ、描写の正しさは人の価値判断と結びついています。公正中立なマスコミを作るのが困難なように、人は自分の視点で物を見ています。だからバイアスは避けられません。全てはポジショントークだというニヒリズムもこういう事実から導かれます。

又、これらとは別に儀式的作法的正しさ、マナーもありますね。これらをローカルルールなのに全体に適用しようとする人もいて、マナーを捏造する失礼クリエイターなどと言ってマナー講師を批判する向きもありますね。

こう見て見ると現実は非常に複雑です。だから神に祈りたくなるのかも知れません。

人間は間違いやすい生き物です。

人間は、欲望を持っていますが、全てを見通して絶対的な正しさの基準においてあらゆる物事を正確に配置する力を持っていません。人々は個人の能力を遥かに超える物事を専門家の協力体制、社会の集合知によって解決しようと試みています。

純化の欲望というものがあります。

社会の解決策を単純な基準、魔法の杖に求めたり、物事の多様性や複雑性を無視して、乱暴に解決したりしようとする人は大勢います。

人は無知の知、不知の自覚を説いたソクラテスの言葉を思い出さねばならないのかも知れません。私たちは汝自身を欲望の存在として見る時、始めて何らかの点で目が開かれるのかも知れませんね。

結語

人は、様々な正しさを使い分けています。

そして、正しさも又、ある意味では一つの欲望であるという事。

人間は精神的には欲望という存在であるという事。

社会は欲望によって構築されたという事。

これらを確認してきました。

これらは私にとって、かなりの点で事実に迫ったものだと思います。

ここから導かれる教訓は、人間は欲望を見つめ、欲望を社会において、うまく実現させていく事によってある程度は、幸福になれるのではないかという事。

逆に、他人の欲望を巧妙に利用し操作して自分の欲望の達成に繋げようとする人々もいて、その結果、欲望のままに生きると破滅する可能性があるという事ではないでしょうか。

皆さんの意見も是非聞かせて下さい。