スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

思いは人との間に生まれてくる(ストレスと対話の重要性のお話)

最近、私はあまり意気込んで「人と会って」いない。

いや仕事場では沢山の人と会っているし、週末には友人と会っている。しかし、全く見ず知らずの人と話し込むという事がない。新しい出会いに乏しいという事だ。まあ、見ず知らずの人と話し込むという事は特別な「場」を設けない限りは発生しないイベントなのだが。

そうなると、段々と人との関係が円滑になっていく。付き合わない人とは付き合わず、気の合う人と付き合う。話さなくて良い事はわざわざほじくり返して話さないし、摩擦が減っていく。「思い」が浮かんでは消え、浮かんでは消えという事が無くなっていく。

 

一つに、これは良い事である。迷いが減っていくのである。

逆に、これは良くない事かも知れないと思う。エコーチェンバーとかフィルターバブルという言葉を聞いた事があるだろうか?詳しくは検索して調べて欲しいが、それぞれ「見たいものだけが見え、見たくないものが見えなくなって」考えが凝り固まっていく事である。身内で集まると身内の考えが強化され、いつの間にかそれが世間の常識とか、世の中の真理、あるいは物の理から乖離していく様を表した言葉だ。

 

そうなっていくと私の場合は、Twitterが幅広く物事を知る為の情報源になるのだが、Twitterも所詮はフォローしたい人をフォローして見るものなので、全ての情報を偏りなく取ると言う事は出来ていないだろうと思う。

それでも、Twitterで自分とは違う考えの人を見ていると本当に世の中には色々な考えの人がいるんだなあと感心する。それが良い方向に突き抜けている場合もあれば、どう考えても「底が抜けている」という印象を受ける場合もある。

ともかくとして、世の中には色々な人がいる。すると様々な考えが浮かんでくるのである。それが私の執筆の材料になったりする。現にこの文章もそうして生まれた。

 

ストレスの大部分は人間付き合いから生じると言われる。つまり最大のストレッサーは他人である。人と付き合わなければストレスは減る。だから冗談半分に、私のタイムラインで仕事を辞めれば病気は治る、仕事が万病の元と言っている人がいた。

しかし、普通の人は仕事をしないと収入がないので働かざるを得ない。そうなるとストレスは完全には無くならないと考えるべきものとなる。ストレスとは謂わば、人付き合いにおける摩擦である。世界から摩擦が無くなる事は無い。

もうちょっと解像度を上げて見ると、ストレスとは思想の差異から生じているものだと分かってくる。人間は絶えず、形の異なる思想を比べて、どちらが現状に妥当であるかを検討しながら生きているのである。そして、集団においてはその思想を変化加工しながら、妥協点、一致点を探って、集団の思想の形状を整えるという作業をしている。これはいちいち説明されないが、結構面倒で骨が折れるのである。気遣いとか配慮という言葉はこういう事を指している。そしてだからこそ、気を遣い過ぎる人は精神を病みやすいのである。

 

メンタルを病まないようにするポイントは、レジリエンスだと言われる。レジリエンスは元々確か、工学用語であるが、今は心のしなやかさを表す言葉として使われる事が多い。心が堅いと物事を真っ正面から捉えて対処しようとしてしまう。例えば、悪口を言われた時に、そんな事はないとか、お前が間違っているとか言い返すという様に。しかし、レジリエンスがある人は、それをそんな人もいるんだなあと受け流したり、適当にあしらう。所謂スルースキルというやつだ。これが高いと精神を病みにくい。まあ、極端に何でもスルーする性格には物事に真剣に向き合わないという短所もあるのだが。

又、私なりに一つアドバイスすると「受け取る情報を減らす」のは効果的だ。

人と人との間に浮かんでは消えていく思い、この一つ一つに答えを出して物事に向き合い、より良くしていこうという作業は疲れるのだ。しかも休憩時間中にSNSを見たりして、更にはレスバ(レスバトルの事、ようするにネット上の言い合い)をしていたら休まる時間がないのだから。SNSを見ないようにするだけでも大分疲れが取れると思う。

 

取り扱う情報の取捨選択が必要だ。自分に何が求められているのかを考えて、自分に必要な情報を集め、その中から使えるものだけを選んでいく。この作業が上手く出来ないとパニックを起こす。あらゆる情報を集めて、全てを管理しようとしたらまあ、当然頭がおかしくなってしまうのだ。キャパオーバーである。

人間は全知全能の神ではない。だから、物事を自分の範囲に狭めて見ている。これは健康の為に必要なのだ。逆に、これを拡張しようとして人々は様々に苦心を重ねてきた。良く頭の良い人の中から一定数、精神を病む人が出てきてしまうのはこのせいだと思う。物事を公平中立に見ようとして、全ての情報を俯瞰して、又、拡大して取り扱おうとすると脳がその処理に追いつけないのである。ある意味、宗教というのはきっと、この情報処理を崇拝対象である「神」に「委ねる」事によって、決断コストを軽減している訳である。宗教においては疑いとか検証が教義に置き換わる傾向がある。これについて詳細に書こうとすると膨大になってしまうので、この辺でやめておくが、いちいち全てを深掘りしないで、決まり事に従っていれば楽という感覚は分かって貰えると思う。

 

人と「出会う」事は本当に大切な事だ。それはストレスにもなり得るが、出会いがあるから発見がある。確か、聖書の箴言の中にこんな言葉があった。

「鉄が鉄によって研がれる様に、人は友によって研がれる」

人間が丸くなる為には、人付き合いが必要である。

 

思いは人との間に生まれてくる。

人がいなければ思いはない。毎日、同じ作業の反復かも知れない。

人を人たらしめているのは人なのだ。

ただ、思いは浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。

それを全て追いかける事は出来ない。

人の夢と書いて儚い等と言うが、本当にそうである。