スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

底辺が提供出来るもの

底辺。

基本的には誉め言葉としては使われない言葉だ。算数で図形の面積を計算する時に使ったりする他は、社会階級が低い事を表す。

現代日本では身分というものは無い事になっているが、人格を評価したり、業績を評価したがる人間は後を立たない。時にはそれが正当な事もあるが、時には単にマウンティングの材料にされる事もある。

底辺が無ければ頂点もない。

底辺、つまり裾野の広さが頂点の高さを決定するとか言ってみても、底辺という言葉に込められた意味が減じる事は恐らく無い。

底辺とは、「身分」が低い人間の事を指す。人格に問題があったり、能力が低く収入が低い事を指す。

 

では、底辺から抜け出すにはどうすれば良いのか?

競争である。

人間が比較の競争をやめない限り、底辺とか頂点とか気にしている限り、この世に底辺は無くならない。最下層はいなくならない。むしろ、頂点の光が強くなればなる程、影は濃くなるのだ。

 

底辺と呼ばれても気にしないという方法もある。悪質なマウンティングは無視するのだ。しかし、ダメなのに開き直るというのはいかがなものか。年収の比べあいにはきりがないから仕方ないが(必ず相対的には低収入の人間はいるから)人格や行動に問題があるなら改善する必要があるのではないか。

収入の過多は競争で決まる部分がある。しかし、人間性は競争とは別だ。理屈の上では資本主義である限り、格差は生まれるが、倫理は一人一人が気をつければ向上する筈だからだ。低収入でも倫理的である事は可能である。

 

最近良く、ノウハウを提供する事で儲けようというブロガーや情報商材屋を見る。いや、私はノウハウではなく“マインド”を教えているのだとか言われるかも知れないが、人に知識を「教えよう」としているのだから同じ事である。

知識な基本的に高い所から低い所に流れる水のような性質を持っている。逆はない。知らない人が知る人に教える事は基本的にはない。

 

底辺から抜け出そうとして、人に何かを教えようとしている人は、この間違いを犯している。自分は底辺なのだから、世の中の上層にいる人間の方が基本的にはものを知っているのだ。余程、低賃金だが専門性の高い事をしているとかいう特殊な事情ではない限り、これは成立する。

 

底辺の人間は、ではどのようにして登っていけば良いのか。

世の中ではこんな風に言われる。

 

地道にコツコツ頑張る事だ、そうすれば必ず見ている人がいる。

 

地道とは何だろう?これは目先の利益に飛び付かず長期的な目線を持ち、地に足がついた事業を通して努力するという事を指しているのではないか。つまり、ギャンブル性の高い事は避けて、まっとうに働くという事である。(遊び金で、娯楽としてギャンブルをする事を否定はしない)

 

これは一理ある。嘘ではないし、正しい。しかし、この方法には穴がある。全ての人がこれを実行する場合、やはり格差は温存される。社会全体の民度が向上すれば、生活は良くなるだろうが、上に上がる事は出来ないのだ。

 

ここに来て、はっきりと二つの事が分かる。まとめるとこうなる。

一つにこうだ。人が底辺から抜け出す為にはもちろん努力が必要だ。倫理においては皆が向上する事は可能だが、収入的には皆が上位に立つ事は(必然的に競争は順位をつけるから)不可能であるという事。

そしてもう一つは、比較を止めない限り、自分が底辺であるという劣等感はなくならないという事だ。不幸を増やしているのは他ならぬ人を羨む自分の心なのである。

 

そうは言っても、私は皆さんに、比較を止めて謹み深く生きろという説教をしたい訳ではない。時には人と自分を比べる事は良い結果をもたらす事もあるからだ。

 

前置きが長くなったが、私が一番言いたいのはこれである。

先程、知識は下から上に流れないと言ったが、一つだけ例外がある。上層部が知らない事を底辺は知っている。

上層部が分からないのは、底辺の実態である。今、現在、底辺がどんな苦しい生活をしているのか、どんな風に毎日を暮らしているのか?こう言う事は社会学者が広範なフィールドワークをしない限り、良く分からないのだ。底辺は底辺にしかない視点を持っている。人は普通、自分の周りの事しか見えないからだ。

 

底辺に必要なのは小手先のノウハウではない。情報商材等の詐欺に手を染める事でもない。むしろ、正直に事実を話す事である。つまり嘘をつかない事だ。話せない事もあるかも知れないが、基本的には誠実に生き、偽らない事が最も身を助ける。

 

良く考えて欲しい。あなたが富豪で慈善家なら、どんな人間を助けたいと思うだろうか。詐欺師だろうか?違うだろう。まっとうに生きようとする人だろう。弱者の選別と言われるかも知れないが、悪者を助けようとは思わない筈だ。全ての人を助けると言うと聞こえは良いが、悪を行う人と善良な人の待遇を同じにする事はむしろ、社会に害をもたらす。犯罪者には罰を与え(もちろん、更正すれば、それ以上に苦しみを与え続けるべきではない)善良に生きている人には報いた方が社会は安定するだろう。皆、学習し、犯罪を避け、善良な人の真似をするからだ。(これとは別に犯罪者に重い罰を与えても、更正はしないというデータもある。罪を犯した人にも一定の赦しが必要だというのである。これも一理ある)

 

噛みつく羊とか、攻撃的な弱者とか言う言い回しがあり、ケアの分野で問題になっている。本当にケアが必要な人は、攻撃的で孤立しがちだと言うのだ。

もし、これを読んでいる人が、これは自分の事だと思ったなら、その行いを改めて欲しい。自分を変えるのは、周りのせいにするより難しいが、自分が周囲を攻撃しなくなれば、周囲の反応は確実に変わる筈だ。

弱者とは実は、いかにも弱者然とした人に助けて貰う人ではなく、プライドが高く、人に助けて貰う事を恥と感じ、周りを攻撃し、必要な援助を受けられない孤立しがちな人なのである。

 

底辺に必要なのは、知ったかぶりをして人に薄い知識を披露する事ではなく、嘘をつかず誠実に生き、約束を守り、信頼を勝ち取り、そしてまた、人を攻撃せず、頼るべき時には人を頼り助けて貰う事ができるような姿勢なのではないか。

 

これが完全に出来るようになった時、もしかしたらあなたはまだ、相対的には低収入で貧しいかも知れないし、経済的には底辺層かも知れないが、最早見える世界は全く違ったものになる筈だ。

 

あなたは人間的には底辺では決してない。

あなたにはあなたにしか出来ない事がある。欠かせない一人である。

そんな風に言われているのではないか。