真実はない。
事実はない解釈だけがある。
最近、このようなことが言われるようになった。
こういう考え方はどうやらニーチェ以降に盛んになったようである。
これに対立する考え方は、真実がある、あるいは人の解釈を超えた客観的な事実があるというものだ。
しかし人間は全能の神ではないので、全てを俯瞰して完全な答えを出すことは極めて困難である。
そこでそう言う考え方を批判して、真実はないとか事実はないとか言われるようになったのだろう。
ニーチェはキリスト教の牧師の息子だが、キリスト教を強く批判した。
キリスト教が正しいのかそれとも間違っているのかということは脇に置いておきたい。しかし、こういうことはできる。人間は全知全能の神ではない。これは事実だ。つまり事実はないという考えは人は全能ではないという事実に基づいているのだ。
近年の哲学においては、客観というものもかなり強く批判されている。客観はないとか、完全な客観に至ることはできないとか 言われている。
そしてそれを補うために人と人との主観を集合させた間主観性を説く現象学という学問があったりする。
現象学についてはまあまあ複雑なので脇に置いておきたい。
ただ興味がある人はぜひ調べてみてほしい。
私が書いていることよりももっと詳しくどうすれば主観を離れて正しいということができるのかということについてさまざまに考察されている。
何かを調べるときには、必ず自分の考えよりも前に先行研究を調べる癖をつけている。
というのも人間というのは、必要のためにさまざまに考えてきた訳だ。
そしてその考えてきたことを著作などにまとめ受け継いできたのだ。
それが文明だ。
私たちは、この文明という巨人の肩の上に立っている。
だからまずは、巨人に問題の答えを尋ねてみるということから初めて見るのが適当だろう。
その上で巨人が答えを知らない場合、私たちが自ら道なき道を歩いていかなければならないことになる。
ともかくとして、私は今こう考えている。
人には人の数だけの物語がある、と。
そしてそれはすべてある意味では真実なのである。
もちろん事実とは異なる誤解をして生きている人もたくさんいるだろう。
例えば人は、耳の痛い事実や真実よりも心地の良い嘘の方を好むことがある。
心の防衛機制によって受け入れがたい本当の事を遠ざけ、出来るだけ自分にとって都合のいい解釈を好む場合がある。
このことについて私たちは常に深く考えていかなければならないと思う。
自分にとって都合の悪い解釈を選び続けることが正しいわけでは決してない。
しかし、時には本当のことが自分にとって非常に苦痛である場合もあるということだ。
歴史解釈においては、ある国が悪いのか、またある国が正しいのか?
戦争に勝った国が正しくて、負けた国が間違っていたのか等、様々に考えが分かれてしまう。
これは人間の価値基準がバラバラで人それぞれ異なる価値基準において歴史を評価するから起きることである。
しかし一つはっきり言えることとしては、誰かが戦争で死んだ時、その死んだ人の死んだという事実をいかに解釈しようとも死んだ事実は曲がらず、また死んだということが否定されて蘇ることもないということである。
このように人は、価値基準、価値判断とそこから離れた事実を区別する必要がある。
尤もこの作業はそう簡単ではない。
しかし、私がこう思いたいとか、私がこう考えたい、こうであれば私にとってとてもありがたい、都合が良い、好ましいという時は、本当にそれが事実なのであるかということについて一度立ち止まって考えることが必要かもしれない。
こういうことについて、何故深く考えることになったのか。
プライバシーが関わるので詳細を語ることはできないが、昨日、ある友人から電話がかかってきた。
その友人が言っていることが私から見て とても不可解だったからである。
その人は、ある事実と、自分がこう思いたいという願望をごちゃ混ぜにしていた。その結果、無謀な事をしようとしていた。
そこでそれは間違っている、そんなことをしてもあなた自身を救うことはできないし、これから良い方向に向かっていくとも思えないという助言をした。
しかし、その人物は、それを受け入れず激昂した。
仕方がないそういうこともあるだろう。
ただ、誰もその人にそういう助言をしていないのだとしたらそれは非常に問題である。
どんどんどんどん自分から、事実、本当のこと、真実、呼び方は何でもいいが、あるべき状態から離れていくということを誰かが止めなければいけない時もあるのではないか。
そうしなければその人は、心地の良い嘘に溺れていき、それは麻薬のように遅効性の毒のように働き、最終的には死に至るのではないか。
私はその人物のことを心配している。
だから私はその人に、受け入れ難いであろう、苦しいであろうことを語った。
それによって嫌われたかもしれない。
だが、私にとってはそれは必要なことだった。
私はこう思う。
本当の友人は人にズケズケと、苦しめるようなことを言って傷つけることはしない。
しかし、それと同時に、何か間違っていることがあれば、それはできるだけ内密に伝えるであろう。
そうしなければその人はもしかしたら誰からも助言を受けられず、ひどい状態になるかもしれないからだ。
私には素晴らしい愛はないかもしれない。
しかし愛というものがもしあれば、それは単に相手に心地の良い嘘を語り続けるようなものではないはずだと私は考えたのである。