スクラップ置き場

社会の底辺に生きているニンゲ…ゲフンゴフン、ぬこが書いている文章です。

異世界転生小説における追放ものに関しての考察

一昔前に、異世界転生小説というものが流行っていた。

最近は、廃れているが、今でもそれらしき小説は書かれている。

初期の頃は、本当にこの世界からの脱出や、逃避をテーマにしたような小説が書かれていたように思うが、最近はそのテンプレを利用したマウント合戦のようなものに変わってきた。例えば、現代知識で無双するという内容の小説を、本当の医師が実際の医学知識を用いて書くというような。

誰がどんな小説を書こうが自由なのだが、小説で食べていこうとしていた専業作家(今は、ほぼほぼいないらしいが)からすれば堪ったものではないだろう。本業で食えているなら、入ってくるなと思う人も大勢いるだろう。

本物の医者よりも優れた医学知識を持っている素人等ほぼいない。皆無と言っても良いだろう。いたとしてもそれは何かの学者とかで素人ではない。

こういうプロが小説産業に参入してきているのだ。

医者に限らず、歴史や経済や工学等もそうだ。こういう専門知識がない人間が、純粋に小説の面白さだけで売れるのは極めて難しくなってきているように思う。

 

社会の底辺の人間には分かる。人生で上手くいかなければ、何か逃避先が欲しくなるものだ。

小説を読んだり、書いたりするという事もその一つだろうし、小説家として売れて「しがらみ」からおさらばしたいという願望もその一つではないだろうか。

しかし、そうした夢の世界にも少しずつ現実が忍び寄っているように思う。

 

異世界転生小説には幾つかのテンプレがあるのだが、その一つに「追放もの」というジャンルがある。これは冒険者パーティーから、無能な主人公が追放されるというシナリオである。しかし、この主人公には隠された能力があった、とか、実は無能に見られていただけで、実力が目立たない陰の立役者だったという筋書きなのだ。

「ざまあ」とか言われたりもするが、主人公を追放したパーティーは立ちゆかなくなって、最終的には主人公に泣きつく。だが、主人公はそれを袖にする。かつての仲間だったパーティーは主人公の力を認めなかった罪によって破滅するという訳なのだ。

 

 

この手の物語には人間の普遍的な心情が秘められているのではないかと思う。

一つに、自分には大きな力、可能性があると信じたいという願望だ。

実際には殆どの人間は凡庸だ。しかし、優越錯覚と言って多くの人間は、自分は平均以上の能力を持っていると錯覚しているそうである。

次に、自分を虐げた共同体、社会への怒りや恨みである。

人生それなりに長くやっていると、どんな人間も冷遇される事があると私は考えている。これは、そう見せないように隠しているか否かだけであって、生き方を非難されない人間はいないだろうと私は考えているのだが、ともかくとして、人間は「いじめられる」時期を経験するのではないか。

このいじめを乗り越えられない人もいるし、乗り越える(逃げて他の場所でうまくやるという選択肢もある)人間もいる。

ともかくとして、多くの人間が、自分を虐げたグループに対する怒りや恨みを持っていて、そういうグループにはそれなりの苦しみを味わって欲しいと思っているのではないかと思う。

 

この二つを組み合わせると「自分を虐げたグループは、自分(物語の主人公)の秘められた能力や、陰の働き、貢献を理解しておらず、いずれそのツケを払う事になるという物語」が出来上がるのである。これが異世界転生やファンタジーのテンプレと結びついたものが「なろう系」(小説家になろうというサイト発の小説の事)と言われる小説になるのだ。

 

現実から逃避して、自分には秘められた能力があると思い込み、他人の破滅を願う。

まさにルサンチマン(哲学者ニーチェの提唱した、嫉妬や羨望が入り交じった他者の破滅を期待する願望の事)の結晶である。

 

なろう系小説界隈はこうした社会不適合者の巣窟である…

 

 

こういう論調の文章を私は何度も見てきた。

確かに、それは一理あるのかも知れない。

仕事についても長続きせず、ゲームばかりやって人付き合いが下手くそな若者。

転職してばかりで年を重ねても正社員になれない負け組。

自己評価ばかり高くて、実際には無能な底辺労働者。

 

そういう人間の現実逃避かも知れない。

 

しかし、この小説を逆さまに見てみた時、新しい側面が見えてくるように私は思う。

 

少子高齢化社会。シルバーデモクラシー。膨れ上がる社会保障費。医療費。介護負担。

育児をしてくれる人材の不足。年金の破綻の可能性。消費税などの増税

先の見えない不況。デフレ。賃金は上がらない。

結婚が出来ない。異性と上手くいかない。

子供が持てない。

特にこうした思いは就職氷河期の世代に顕著なのではないか。

今の若者もコロナ禍でそれなりに割を食っているが。

(これはあんまりにも捻くれた見方かも知れないが、最悪の可能性として考慮しておいても良いと思う。

 

就職氷河期世代を忌避していた若者は理解する事になる。この国は大きな災害などがあって、その問題で社会のレールからこぼれ落ちた人々を救済できないのだ。それなりに手当や対策らしきものがあって補填されるように見えるが、全然足りないし、失われた時間は戻ってこないのだ)

 

もしかして、若者は、この社会という「冒険者パーティー」に虐げられ「追放」されたと感じているのではないか。そして、社会全体に対して怒りや恨みを抱いているのではないだろうか。そうして生まれる「無敵の人」

 

 

この文章は、私の完全な空想、いや妄想である。

しかし、物事には幾つもの側面があるという。人はセンセーショナルな解釈を好む。

自分の考えを裏打ちしてくれる仮説を選びたくなる。

本当の所はどうなのだろうか。

 

確かなのは、この世界には神から手軽に授けられる「スキル」なんてものはないし、それがあるだけで簡単に生きていけるような「チート」もないという事である。

どちらに転んでも、自分の身は自分で守らなければいけない。

社会は助けてくれはしない。いや助けてくれるかも知れない。

しかし、期待しすぎてはいけない。

私はそう考えている。